念を動じない
文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年7月31日】よく修めた「真我」は、人間の思想がなく、人間の思想よりもっとミクロ的で、人間の体は感知できないでしょう。相対的に比較して言えば、人間の思想より物静かです。人間の脳は本当に静かになれば、人間の一面は「真我」に主催されやすいので、様々な次元の法の基準に達することができます。
さらにミクロな空間から見ると、人間の表の物質は全部業力です。人間は念を動じると、表面の物質に触れることになり、業力に染まることもあります。「念を動じると業力になる」の意味を現しているではないでしょうか。人間の意念は本人の姿と同じです。この意念はどこに行っても、最後はやはり自分のところに戻ります。私たちが表から見たものや聞いたものは、最もミクロの次元から言えば、やはり業力です。
古代の修煉者たちは、念を動じない。そして、清らかな心と無為状態を保つことで、この表面の業力から抜け出し、汚染される可能性は最大限に減少することが可能でした。
しかし、大法弟子は個人修煉のほか、衆生を救うことも使命であり、耐えず学法することによって、心を修め、自分も清めることになります。言い換えれば、大法弟子は、煩わしさのない生活だけを求め、自分の使命を果たせないなら、それは大法の中で修煉していないので、大法弟子ではありません。
個人的な修煉体験なので、適切でない所があれば、ご指摘ください。