新しい学習者:私は真に修める弟子なのか?
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2015年1月15日】私は新しい学習者です。昨夜、師父の法像を拝むとき、いつも見る師父の慈悲なる笑顔ではなく、非常に厳しく、目から威厳のある光を放っている師父の顔が見えました。その威厳さは今まで見たことがなく、何とも表現できません。それを見た時、私は一種の怖さを感じました。もちろん、自分が良く修めていないから、師父はそのように私を見ていると思いますが、しかし、その怖い感覚はどこから来ているのでしょうか? もしかして、私の身に本当に何か良くないものがあるのでしょうか?

 この1カ月間、私の修煉状態はますます悪くなってきました。本を読めば眠くなり、頭がガクンとなって初めて自分がいつの間にか寝ていたことに気づきます。座禅して煉功するとき、ソワソワして立ち上がりたくて、まるで次の一秒にでも脚を下ろしたいような衝動を感じます。発正念の際も以前のような念力の集中がなく、頭の中では常人の事がよぎり、いつそうなったのかもよく分かりません。一度、私は発正念の口訣を暗唱し間違えたこともあります。なぜ、短い数週間の内に自分がこうなったのかよく分かりません!

 「内に向けて探すことは最も有効な方法です」(『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』)。私はこれから、本当に内に向けて自分の漏れをよく探すべきです。

 一、修煉環境が変わった

 今年の4月初めに私は新しい環境に入りました。去年、師父の按配により、私は主人(常人)と一間の家を売って、二間の家を買いました。その時、私は大法を得てまだ1カ月あまりで、これはもっとよい学法や煉功の環境があるよう師父による按配だと思いました。家を売り買いする過程があって、更に新しい家の装飾も必要なので、私は主人と各自の会社近くで臨時に部屋を借りることにしました。二人が遠く離れ、あまり会えることもなく、これが私の修煉に利便を提供しました。私が借りた部屋は会社に近いので、多くの学法の時間が得られました。

 私の部屋にテレビがなく、そこに住んでいた間、私は毎日朝に煉功し、退社後の帰宅途中に夕食を簡単に済ませ、家に戻るや否や学法に没頭し、一晩に4時間あまり学法ができました。毎日、私は大法に浸って、全体の空間場も大法によって満たされ、心に大法があって、物事を大法に沿って考え、正念が強かったのです。短い8カ月間ですが、振りかえってみると、法を得た当初の自分と比較にならないほど、正に師父がおっしゃったように、「一朝法を得て上へ沖し急げ」(『洪吟三』「観た所感」)となりました。

 本来1年の賃貸契約を結んだのですが、今年の2月、家主は突然家を売却し借金を返したいと言ってきました。仕方なく、私は3月の末にその部屋から出て、自分の新しい家に移り住み、新しい環境に入りました。この全ては師父の按配だと私は思いました。新しい家には主人はまだ引っ越してきていませんが、しかし、常人の母親は近くに住んでいるため、時間があれば私の所に走り、時にはそのまま私の家に泊まり込んでしまいます。

 私はこれが試練だとすぐに分かりました。なぜ私は常人と一緒に住む環境に戻らなければならないでしょうか。新しい家は会社から遠く、毎日の通勤時間が長くなりました。毎晩、私は母と一緒に食事し、その後、彼女の雑談の相手にならなければなりません。雑談の際、リビングのテレビもついているので、ドラマだったり、中国共産党のニュース番組だったり、娯楽番組が流れてきて、私は無意識のうちに良くない情報を受け取っていました。私は自分自身、すでに常人のものに興味を持たないと思っていたのですが、いざそのようなテレビ番組を目の前にして、私は予想外に好奇心を示しました。「この人はこの後どうなるの? 見てから学法しに行こうか? あと数分だけのことですから…」「この人は歌がうまいですね。神韻に比べ、若干劣りますが…」などなどを考えます。

 師父は『轉法輪』の中でおっしゃいました。「あなたはなぜ行ったのですか。聞きに行って、求めていたのではありませんか? 耳に入れようと思わなければ、それがどうやって耳に入ったのでしょうか?」「ここに一理あると思っただけで、それが出てきて、あなたの功に加えられます」。今になってやっと分かったのですが、ついているテレビも一種の試練です。それを見て常人のことに心が動じるかどうか、自分が修煉者であることを意識しているかどうかが試されます。それを見入ったり、聞いたりすること自体、求めていることに等しいです。こうして2カ月間、私の空間場に次元の低い汚物が充満し、それが私を包囲してしまいました。それだけでなく、テレビを見ている際、ミニブログや八卦の情報などなどが押し寄せてきて、この類のものを見ているうちに、自分の空間場がますます純粋でなくなり、私はもっと容易に常人のものを受け入れるようになってしまいました。

 また、毎日の学法の時間が急激に短くなって、一日に学法出来るのは2時間足らずで、正念がますます弱くなって、学法してもなかなか心に入りません。時には頑張って自分の空間場を綺麗にし、正念も再び強くなったのですが、何日後かにまたダメになってしまいます。今の私は、発正念をしてから数分後に眠ってしまい、記憶力が低下し、つい先ほど読んだ法も思い出せないようになりました。

 二、根本的な執着が見つかっていない

 大法を修煉し始めた当初、私には一切の執着心がなく、それ以前に修煉などを考えたこともありませんでした。こうして時間が経つにつれて、私はかえって自分は何のために修煉しているか分からなくなりました。

 私はネットで真相を伝え同修を通じて大法に出会いました。修煉してから分かったのですが、私が修煉を始める随分前から師父はすでに私を見守ってくださっていたのです。例えば、大法に出会う半年前のある日、私は突然肉が食べられなくなり、肉が臭いと感じました。大法に出会う3年前に、2回ほど車にすごいスピードでかすられましたが無事でした。大法に出会う2年前のある日、主人と喧嘩し、もし自分が妊娠しているなら中絶しようと思いました。その念が出て来るや否や、空から落ちてきたゴミに頭を打たれました。それは師父による棒喝でした。大法を得た数日後に、私は法輪が見え、そして無数層に重なった佛の手印も見ました。大法に出会って1カ月後に、私は常人の同僚に『共産党についての九つの論評』を読み聞かせ、彼女が真相を知った後、私は金色に輝き、咲いている蓮が見え、遠くから法輪が飛んできて、蓮の周辺で飛び回るのが見えました。修煉を始めた後、私の身に起きた奇跡は数多くあります。法を得た後の喜びも言葉で言い表せず、毎回私は師父の法像をみて泣くばかりでした。

 今まで私は精進していくのがそう難しくないと思っていました。明慧ネットで多くの同修の交流文章を見てきて、私は不思議に思いました。「そんなに難しいですか? 私よりダメではありませんか?」。実際この念は常人の念です! 修煉者が神の次元に到達すれば、「私は他人より良く修めている」との念を抱くはずがありません。

 再び法を得た過程を振り返ってみると、大法を得た当初は確かに何も求めていませんでした。ただ大法が良いと思っただけです。しかし、今まで修煉しようと思ったことがなかったために、いざ常人社会の何か楽しいことに出会えばすぐに追随します。「中士」である私を引っ張っていくために、師父は私に8カ月間の妨害のない修煉環境を按配して下さり、多くの奇跡を経験させてくださいました。しかし、それらの奇跡はいつの間にか私の執着と化してしまいました。

 今までこの点に気づきませんでした。多くの同修の交流文章を見てから分かったのですが、大法弟子の身に起きる奇跡は法の体現で、師父による弟子への加護と啓示です。そのような奇跡などに執着すれば、常人に等しいです。その人は修煉者の身でありながらも、常人の面が強く、何か超常的なことに遭えばすぐに興奮してしまいます。神にとって、一つの宇宙を作るのに僅か一念でできます。師父にとっては、弟子に十分な正念があれば何でもできます。それなら、小さな奇跡に執着してしまう私は理性的に大法を認識していないのではありませんか? 未だ人間の認識に留まっているのではありませんか? そう思えば、師父が厳しい視線で私を見られているのも理解できます。師父は『精進要旨』「根を掘る」の中でおっしゃいました。「肝心な時に、わたしは皆さんを人間と決別させようとしているのに、皆さんはかえってわたしについて来ようとせず、一回一回の機会はいずれも二度と訪れないのです」。そうです。今になって、私はやっと師父のおっしゃったこの言葉の真義の一部が理解できました。

 また、『シドニー法会での説法』の中で、師父は「実は修煉は難しくありませんが、難しいのは常人の心を放下できないからです」とおっしゃいました。以前、私は本当になぜ難しいかは知りませんでした。なぜなら、今まで私は根本から人心を放下しようとしなかったからです。本当に人心を放下しようとしたとき、私はその阻まれる大きな力を感じ、逃げました。師父は再三に私に啓示してくださいましたが、私は教訓としませんでした。この人心は私の日常生活及び仕事の中、そして数十年人々と接してきた処世術にあって、ある日突然変えようとすると、それらの観念が出てきました。「長年、私はこのように話してきました。仕事はこうやってきました。どう変えますか? 変えたらどうやって仕事をしますか? どういうふうに話をしますか?」これらの観念は本当の私ではなく、真の私の姿は師父のみご存じです。もし法輪大法を修煉しなければ私は永遠に真の自分の姿が分からず、そのような機会もないでしょう。大法を着実に修煉し、初めて蓮のように真我が蘇ります。

 この交流文章を書く過程は修煉の過程でもあります。私の思惟は徐々に明晰になり、自分の問題点も見えてきました。この全ては師父のご加持により完成できたと思います。再び、私は師父の洪大な佛恩を実感し、感激と感謝で胸がいっぱいです! この時、数日間曇っていた空から突然明るい太陽の光が差してきました。大法弟子の修煉状態が良くなれば、全てが上手く行きます!

 次元に限りがあるため、妥当でない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/6/5/274867.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/6/28/140718.html)
 
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