『世界法輪大法デーの説法』を読んで感じたこと
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2014年8月25日】師父は「皆さんは知っていますが、聞いた、見たとは何でしょうか? 人間が思っているようではなく、見終わったら終わりで、それを自分のものにしたのではなく、聞いてもそれを求めたわけではなく、何事もなかったということではありません。いかなるものも物質で、聞いたらそれが注ぎ込まれ、身体の中に注ぎ込まれたのです」[1]と説かれました。

 師父の法を読んだら、私は見るべきのないものを見ない、聞くべきのないものを聞かない。そして、見る、聞くべきのものを多く見て、聞かなけばならないことが分かりました。

 私は修煉する前に、小説を読むのが好きでした。いつも、物語の世界に浸っているばかりか、現実から逃避します。しかも、修煉した後も、時には耐えられますが、我慢できないくらいに読みたくなる時もあります。長い間、この執着心を放下することが出来ませんでした。しかし、法理が分かれば、私は自分の正念を確固とします。見るべきではないものは絶対に見ないのです。聞くべきではないものは絶対に聞かないことにしました。中共の影響で、今の中国社会は乱れています。暮らしの中で、ゲームや、映画、テレビ、音楽、小説、様々な娯楽が乱れに乱れています。

 大人なら、自制できます。しかし、若い同修は何が良いか、何が悪いかを判別できないのです。良くないものを多く見たら、汚染されてしまいます。ある若い同修は「良くないものは特に見ていない」と思っていますが、良くないものというのは、エロティックで暴力的なものだけを指すことではなく、修煉者として修煉に無関係な物は妨害になります。大法弟子にとって、学法と人を救い済度する貴重な時間を無駄にしてしまいます。

 最初、学法をすると、良くない考えがすぐ出てきました。『轉法輪』を読んでも、何の悟りもなく、ただ読んでいるだけだと感じました。師父のこの経文を読んだら、私は法を読むこと自体が、自分自身を浄化することで、多く学法しなければならないと確信しました。常人社会は人を堕落させる場所ですので、法しか私たちを浄化することができません。慈悲なる師父しか、私たちを連れて本当の家に戻ることが出来ません。

 以前は、私は大法の掛け軸をかけたり、壁に「法輪大法は素晴らしい」と書いたり、ただ幾つかの文字なのに、いったい何の役に立つのかが分かりませんでした。今は少し理解できるようになりました。世の人々がこの「法輪大法は素晴らしい」という文字を見たら、人々の体の中に入り込み、そして知らないうちに良い方向に変えることができます。

 次元が限れていますので、適当でないところがあれば、ご慈悲にご指摘ください。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『世界法輪大法デーの説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/8/12/295910.html)
 
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