文/米国西部の大法弟子
【明慧日本2016年7月2日】学法をする中で、最近の体験を皆さんと交流したいと思います。
特に「初心を忘れずに修煉」[1]することは難しいと感じます。精進できないと感じている同修に少しでも参考になればと思います。
大法から恩恵を受けた私は、修煉において次元も突破することができ、多くの問題に対してもすぐに分かり、問題の根本的な原因をはっきり見ることが出来るようになり、知恵が増したことに気づき、自信もついて、常人の仕事の専門分野における能力も大幅に上がりました。法を学ぶことによって仕事の能力も上がり、たくさんのことを悟りました。これらの体験を通じて、法を固く信じ、神韻の子供たちのように短期間で世界レベルに達することができると思います。
同修と仕事をする過程の中で、多くの問題点がはっきりみえるようになったため、この修煉者はどのような修煉状態だとか、あの修煉者はどのような執着に阻まれたとか、プロジェクトはこのように進めるべきなのに、どうしてこのようにしないのかと、同修を見下すようになりました。修煉しているうちに、徐々に修煉に対していわゆる「経験」が形成されました。例えば、ある問題に遭遇した時、自分は大法から知恵を得られれば解決でき、大法の修煉を如何に修めるか分かると思い込んでいました。
常人に符合しながら修煉することを口実にして、私は自分が正しいと思うことを取り組み始めました。ときどき学法や煉功を緩めても気にせず、自分は正念があるから大丈夫だと思い込んでいました。しかし、知らず知らずのうちに物事の捉え方がだんだんと常人のようになり、妨害にあったとき今までの修煉の経験を用いれば解決できると思いましたが、解決できず、また多くの問題も自分の知恵を出しきっても対処できないのに、学法をしようとしませんでした。その時法を多く学ぶことができず、煉功もしたくなかったのです。大法の要求に従えば、現実は厳しくて耐えられず、常人のやり方に従えば、常人に戻ってしまうと心の中でバランスが取れなくなりました。
ある日魔難に遭い、今まで通りの自分のやり方で解決しようとしていたところ、同修が懸命に説得してくれ、しぶしぶ学法しました。学法が終わってから、自分の考えでことを進めようと思っていました。しかし、15分くらい学法しただけで、解決できなかった問題と妨害が解けてしまい、もとの自分の考えが間違っていたとわかりました。その時、私はやはり学法すべきだとやっと気づきました。
翌日、『轉法輪』を開いたとき、新しい「論語」の最初に書かれた「大法は創世主の智慧です」[2]が私を呼び覚ましました。自分が正しく、自分の知恵が大したものだと思っていても、大法に比べると何ものでもなく、自分がもっているものは全て大法によって与えられたとわかりました。また、物事を深く細かく分析している自分は正しいと思っていましたが、実は常人の観念をもって大法を認識しているにすぎませんでした。新奇をてらって自分を顕示し、他人を見下し、名利情への執着を離さず、自分が正しく他人が間違っていると思い込み、だんだん自分自身を律しようとしなくなっていました。師父のお言葉は私の名利情への執着を含む各種の執着心、常人の中で形成された考え方などを気づかせて下さいました。それらは全て「神に対する排除」[2]が根底にある社会の中で形成されたもので、人間はだんだんと傲慢になり、思い上がって自我への執着しかなく、物事を考える時に、自分より更に高い次元の生命のことを思いつかず、自分を超える次元のことに対し、考え及ぶことができません。
自分がいくら正しくても全て放下し、以前でき上がった観念、大法の修煉から得たいわゆる「経験」を含めて排除しなければならないと思いました。それはその時期、その次元での認識に過ぎず、ずっと固執してはならないとわかりました。それ以降、頭を空にして、大法を取り入れ、できるだけ大法に同化するよう自分に要求しました。本当に法をもって物事を考えれば、解けない問題があるでしょうか? ないと思います。このように認識するようになってから、以前どうしても放下できなかった執着心を簡単に放下できるようになりました。これらを放下しなければ、古い観念、執着がいっぱいで、大法を取り入れることができないからです。例えば宮殿に古いものがいっぱい詰まっているとき、これらを外に運び出さないかぎり、新しい財宝を納めることはできないのです。
多くのインテリの同修は、現代科学の社会の中で形成された物事を分析しようとする観念を重く見ないほうが良いと思います。それらは大法の要求に合わないもので、「神に対する排除」[2]のもとにできあがった観念です。私を含む多くの同修は理論を学ぶような方法で学法し、法理もすらすらと述べることができますが、心の底から賛同し、認め、あるいは実践するとは限らず、ただ、理論として学んだに過ぎません。
「大法は創世主の智慧です」[2]のお言葉を思い出すと、他のあらゆる思惟、観念、また常人が執着するものとは比べることができず、法を追い求める気持ちと大法の威力が直ちに人心を抑制したと感じました。主意識が「創世主の智慧」[2]を学びたいと強く願うとき、真に学法とはどういうものかを体験できました。以前は自分のものを守ろうとし、一部の人心を放下したくないため、空間場が清らかではありませんでした。最近は毎日1講、2講を読んでも、なお足りず、しかもエネルギー場をとても強く感じ、常人の心を抑制するエネルギーも強くなりました。学法を通じて、自分の人心を抑制して、このエネルギーを体外に出せば、同様に他の常人の良くない考えを抑制することができ、人を救い済度することに良い効果をもたらします。このことを悟ってから、もっと常人の心を抑制する力を備えなければならず、自分を清らかにしなければならないと思うようになりました。たった2日、3日で私は身も心も完全に入れ替えられた感じがしました。
師父は、「『あなたは人間の修煉をあまりにも易しくしすぎている。人間にはせいぜいそれぐらいの難しかなく、人と人との間のこともたかが知れている。なのにまだ、さまざまな心が捨てられていない! 迷いの中で、あなたの大法そのものについて認識できるかどうかも、まだ問題なのだ!』と、わたしも大覚者たちに言われています」[3]と説かれました。もし、自分があまり精進しておらず、精進しようと思っても躊躇して前へ進む勇気がないと感じるようでしたら、根本的な原因を探すべきで、まだ放下できないものがあるか、あるいは真に大法とは何かについてまだ認識できていないかもしれません。
また、師父は「私の放出したエネルギー場は均等に分布しており、エネルギーは指向性があります」[4]と説かれました。私は自らこのエネルギーを受け取りたいと心から願ってから、前のようなしっかり学法せず、煉功したがらない「自分」は、全く躊躇なく喜んで学法や煉功をするようになりました。法を追い求める気持ちが強く、もっと早く創世主の智慧を自分の生命に取り入れたい願いが、常人の思い悩みを整理してくれました。
その時頭の中にある場面が浮かんできました。上に師父がおられ、私たちは下にいて、ひとりひとりがみんな容器のようなものをもち、師父はご自分の智慧を注ぎいれようとされていました。もし、私たちがそれぞれの次元で、もとの自分の考え方を排出して空にすれば、師父から授けられた智慧と威力を自分の中に取り入れることができ、真に大法の粒子になることができて、師父とつながり、大法が私たちに対する基準を満たし、師父が法を正すことを手伝うことができます。もし、常人の観念を抱きながら、または以前の自分が賢いと思っていた考え方を放下しないまま、大法を実証する仕事を行えば、無意識に大法と相反する働きをするかもしれません。同時に、例えば、「皆が動き出せば、必ず結果を出せる(人が多く集まれば大きな力になる)」というような考え方ですが、私たち一人一人が修煉そのものに対する認識を高め、修煉の上で向上し、互いによく協調し、集まって法を実証することは、公式的なものではないと思います。
考え方について、例を挙げて説明したいと思います。むかし道を修める人は何かを行う際に天象を観察し、天象の時期が来れば動き出しますが、時期が来なければ、動こうとしないのです。神を信仰しない社会では、みんな「私」という心をもち、その上「神に対する排除」[2]の観念を注ぎ込まれ、天象など気にせず、自分のやりやすいように行い、いつも自分の角度から物事を判断し、師父の要求に合うかどうかを考えず、師が法を正すことを手伝っているようにみえますが、実際はいろいろな困難にぶち当たり傷ついています。
ここまで書いて、メディアや各種プロジェクトが直面した難関を思い出しました。私の見解が正しくないかもしれませんが、同修たちはさまざまな辛い思いをし、いろいろな手法を用いて解決しようとし、この方法やあの方法と外へ向かって探し求め、如何にして経営状態がよくなるのかなど、知らず知らずのうちにお金を稼ぐことばかりを考えるようになってしまいました。ある同修はプロジェクトの中で名を求め、ある同修は他人を見下し、ある同修はいつも自分が正しいと思い、またある同修は権力に対して修煉するようになり、多くの同修はいつも責任者ばかりを見ていて、お互いに信用しないなどなど様々な人心があります。実は私たちは皆、「神に対する排除」[2]の社会で形成された観念を持って仕事をしており、いつも自分の常人の能力が大きく、自分の考え方が正しいと思っています。もちろん、問題が起きるのは当然のことですが、これらの問題が起きた時、無条件で法に同化して、法を自分の中に取り入れることができれば、それは創世主の智慧なので、おのずとどのように解決するか、あるいは如何に同修を助けるか、又はどのようにこのプロジェクトを進めるかが分かるようになります。多くのことは他の空間の要素と合わせて行うものなのに、私たちは自分の知識を気にしすぎてしまい、師父が要求された結果ではなくなります。修煉によって威徳がついてくれば、資金の問題はおのずとだんだん解決するようになります。そうでなければ、常人の手を尽くしても逆効果になるかもしれません。それは利益に執着して、外へ向かって探すからです。
ここまで書いて、師父の詩を思い出しました。(和訳付き)
「觉者」
常人不知我
我在玄中坐
利欲中无我
百年后独我”[5]
「覚者」
師父は「利欲の中に我無く」とおっしゃいました。この句について私は新しい認識がありました。もし私たちが利益や欲望への執着を持って師父に助けを求めても、なんの意味もありません。師父はそこにいらっしゃらないからです。絶えず法に同化すれば、同化された部分は真に師父と繋がることができます。そうでなければ、自分のアイディアがいくら良いと思っても、師父が求められたものとは限りません。
このような願望を持って学法した時、本当に繰り返し読んでいるうちに絶えず異なった全く新しいことを悟るようになりました。創世主の智慧を学ぼうと、敬虔に学法した時、とても強いエネルギーを感じ、常人の心が全て抑制されました。解けない問題で苛立っていた時、私は本を開いてただ読み、問題を解決できるかどうかを考えたりせず、単純にこれらのイライラする気持ちやあれこれの思いを早く追い出し、頭の中に法を入れたいという基本的な願望しかありませんでした。まるで偶然のように師父のお言葉が私の問題を解決するヒントとなり、しかも、効果が直ちにあらわれました。
上記の内容を交流したのは同修の皆さんが学法を重視し、無神論によってもたされた現代科学から形成された観念を破り、人間の観念や思惟をもって学法しないようにアドバイスをしたいからです。旧勢力は私たちがもともと持っている考え方の中に身を隠しています。それは本来彼らがそのように按排したからです。自分を空にして、大法を取り入れれば、よくない観念がなくなり、旧勢力の居場所もなくなり、人々を救い済度する威力も強くなり、邪悪も全て取り除かれます。
以上は個人の次元で悟ったことですが、不足があれば、同修の慈悲なるご指摘をよろしくお願いいたします。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」
[2] 李洪志師父の経文:「論語」
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の経文:『各地での説法一』「シンガポール佛学会成立式典での説法」
[5] 李洪志師父の詩:『洪吟』「覚者」