これらのマイナスな考えから探し、その根まで掘り下げていきます。
まずは恨む心と恐れる心です。修煉を始めてからの五年間、自分がよく修めていなかったがゆえ、家族に大法に対して何回も業を作らせてしまいました。それ以来、私は彼に対して恨む心が生じ、また、彼は再び業を作ってしまうのではないかと懸念し、彼の前で大法の事を言及せず、日常生活の事以外、彼と会話や交流をしませんでした。しかし、この恨む心が他空間でどんどん膨らんできました。
深く掘り下げていけば、これらの心は情に対する執着によるものでした。その現れとして、例えば、「家族全員が修煉者である」ことへの渇望が満たされないと、彼に対して恨み、嫌悪 、不満などを抱く・・・。この面において、自分は修煉者の基準で自分を律せず、常人に堕ちてこのような良くない考えを持つようになりました。しかし主人以外の他人には、このような考えを持ったことがありませんでした。なぜでしょうか? この「我」は他人に何も要求、期待をしておらず、他人が何をしようとも、「我」と関係がないので、悪い念も生じません。しかし、家族に期待していた信頼、配慮と理解を得られない時、それが外に向けての求めで、それは「真我」ではありません。「真我」は生まれ変わる度に形成された観念や業力などの「花崗岩のような硬い石」(『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」)に包まれています。ここまで書いて、自分は「真」の新たな意味を理解した感じ、修煉とは「偽我」を取除き、「真我」を蘇らせることだと思いました。
「偽我」をどうやって取り除くのでしょうか? 師父はこうおっしゃいました。「あなたが正念を堅め、執着を排斥することができるとき、私は少しずつ少しずつ取り除いてあげています。あなたにできる分を私は取り除き、その分を消してあげます。(拍手) しかし、修煉者として言えば、あなたは本当に修煉者のように自らに要求しなければなりません。時々まだできないかもしれませんが、少なくともあなたにはこのような正念がなければならず、自ら修めなければなりません」(『各地での説法四』「二〇〇四年シカゴ法会での説法」)なるほど、「修は己にありて、功は師にあり」(『転法輪』)は至るところで体現されます。
一方で、責め、恨み、恐れ、嫌味、不満、罵りなどの人心を取り除きたければ、根本から「偽我」を取り除き、情による束縛から脱皮しなければなりません。「情」は三界に充満し、高次元の生命から見れば非常に汚い物質です。「真我」が三界に堕ちて、長い輪廻の中で一層一層の「偽我」に包まれ、情に浸し、全ての執着心が情につながり、生老病死の中で愛や恨みなどなどを感受しています。
しかし、「真我」は高次元から来ており、「真我」を構成する物質の粒子は情より小さく、密度は情より高く、情から一切の作用を受けることがありません。修煉において、内に向けて探すとは、真我と偽我を区別し、法により得た正念で偽我を溶かしていく過程だと思います。本当にこうやり遂げることができれば、情の中にいながらも心が動じることはないでしょう。
執着心は見つけることに留まらず、学法、発正念を通じ、そして普段自分の一つの念や一つの考えを通してきちんと取り除かなければなりません。恨む心が徐々に小さくなり、何も求めない心構えで家族と対面する時、以前のようなマイナスな考えが消え、心が楽になって、大法の中で修煉できることの貴重さも実感しました。
個人の次元での所見ですので、不適切な部分があれば同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/11/13/136260.html)