私は「情」を物事の判断基準にしていた
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012年10月20日】最近になってやっと、私は自分の最大の欠点を発見しました。つまり大法の基準でなく、自分の感銘で物事の善し悪しを判定してしまうのです。ある人に良い印象を持てば、その人と旧い友人のように誠心誠意に接し、ある人に良い印象を持たなければ、うわべだけの付き合いをして、距離をとって警戒していました。そのような状態は、修煉前はもちろんですが、修煉を始めてからも変わらず、同修ともそのように付き合っていました。今日にいたるまで、自分のこのような判断基準が間違っているとは思っていませんでした。

 例えば迫害が始まってから、同修はお互いに疎遠になってしまい、私は一人で毎日、家で学法煉功をしていました。2003年、偶然に同修のAさんと知り合いました。しばらく付き合って、私は「彼女は良い人だ」と判断して、彼女を一途に好きになり、よく彼女を助けたりして一緒にいる時間を楽しみました。誰かが彼女の悪口を言うと、私は彼女を守りました。しかしある日、彼女が陰で私の悪口をたくさん言ったと聞いた時、私はやっと冷静になりました。自分はまた情の中に陥ったと分かったのですが、深く掘り下げず、執着も除去しませんでした。

 しばらくして、私は年配の同修Bさんと知り合いました。Bさんに好感を持ち、私はまた一途に情に陥ったのですが、まだわかっていませんでした。ある日、私は自分の悩みを彼女に打ち明け、彼女は法理に則って私を悟らせてほしかったのですが、彼女はただ「あなたがどのように対処するかは、あなた自身の事で、私達は口出しをすべきでない」と話しました。この言葉が耳に入った瞬間、私の心は冷めました。私はいつも真心を同修に捧げているのに、どうしていつもこのような態度を返されるのかと、とても悲しくなりました。

 内に向けて探した結果、自分は同修との間の情に執着していると悟ったものの、深く掘り下げず、執着は除去せずにそのまま残っていました。

 それから、また年配の同修Cさんと知り合い、最初の頃と同じように、彼女にとても良い印象を持っていました。しかしある日、他の同修からCさんのことを聞いて、Cさんの欠点に気が付きました。つまりCさんは時々、心の中で思ってもいないことを口にするのです。

 同修との情に執着しないようにと、私は自分に言い聞かせるのですが、Cさんとどのように付き合えば良いか、分からなくなりました。その後Cさんの間違いを指摘した時、彼女はかえって「私に良くない物質を加えないでください」と言いました。私は誠心誠意に言ったのに、かえって相手の誤解を招いてしまい、自分はいったいどこが間違ったのかと戸惑いました。

 ずっとその問題を考えて、ある日突然分かりました。同修との間でも常人との間でも、私の行いは「真・善・忍」を判断基準にするのでなく、自分の感情と感銘を判断基準にしていたことが原因だと分かりました。

 この執着に気付いてから、ある日、以前の同級生Dさんと街でばったり会いました。卒業してから、彼女とはほとんど会ったことがありませんでした。その日、私は以前の観念(彼女はきっと私に対して好印象を持っていないと私はずっと思っていた)を放棄して、彼女を普通の衆生として見て、進んで彼女に話しかけました。結局、二人はとても意気投合して会話ができました。本当に師父がおっしゃった「情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです」(『転法輪』)の通りでした。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/9/24/263060.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2012/10/12/135829.html)
 
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