文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年9月28日】「廬山の本当の姿を知らないのは、ただ私が山の中にいたからだ」という詩のように、ある出来事や物事の全体を見るためには、その中から抜け出してこそ、はっきりと見ることができるのです。そうでなければ、部分や些細なことにはまり込むと、なかなか抜け出せなくなってしまいます。
修煉者が問題を見る時、大所に着目して全体を通して見なければなりません。例えば、人を見る時は、その人の一時的な状態を見てはならず、全体の、一生の過程を見なければなりません。そして、修煉者としてはその人の過去から、命の源まで見なければならないのです。なぜなら、今日のほとんどの生命は法を得るために来ており、たとえこの生命が今日何か悪いことをしても、完全にこの生命を否定してはいけません。このような見方ができれば、心の度量も広くなり、些細なことに陥ることもなくなります。
修煉者は一時の安逸に安んずることはしませんので、我々は広大な基準で世間を見なければならないのです。宇宙の歴史から見ても、大法弟子は極めて重要な時期に、極めて重大な使命を負いながら法を実証し、衆生を済度しています。そして、これは今大法弟子がいる位置であり、しなければならないことでもあります。
大法弟子が法を実証する中で修煉することができ、衆生が救われる機会があるのは、師父が旧宇宙の滅亡を抑え、波乱を防いでくださっているからです。すべては師父が何もかも耐えてくださっているから、衆生には救われる希望があるのです。佛恩が滔々としているという言葉だけで師父の慈悲を言い表すことはできませんし、いかなる言葉でも言い表せません。なぜなら、我々が今使っている言葉は昔の言葉であり、歴史のどの時期においてもこのようなことは一度もなく、神でさえこのようなことを経験したことがないので、これに適した言葉は存在しないのです。すべての生命がまだ生きていられるのは、師父が衆生に機会を与えてくださったからであり、この宇宙の生命である限り、すべての生命は師父に感謝しなければならないのです。
それでは、大法弟子は今、どの段階にいるのでしょうか。法を正す時期はすでに最後の段階を迎えたのに、多くの同修は意気消沈しています。これは重大な問題であり、まさしく師父が説かれた「最後になればなるほど、緩めてはならず、最後になればなるほど、法をさらによく勉強し、正念を充分に持たなければなりません」[1]のように形勢は飛ぶように前に進んでおり、人間界の邪悪な人たちも捕まえられたり、別の方法でそれぞれ応報を受けています。しかしながら、一部の大法弟子は気が緩み、自らの使命を忘れて常人のようになってしまった人も中にはいるのです。
意気消沈することも旧勢力による按排であり、大法弟子の表の常人の観念も利用されると悟りました。人の思想は非常に狭隘(きょうあい・度量が小さいこと)で脆いため、すぐにいらないことで頭を悩ませてしまいます。
例えば、ある同修が捕まえられて、脅迫や拷問に耐えられずに「転向」させられてしまい、その後、修煉の自信を失って自暴自棄になり、落ちるところまで落ちていきました。これは法理に対する理解が不十分だからです。実際、「転向」などそれほど気にする必要はなく、常に法を勉強し、今回のことを教訓としてこれから努力してまっすぐ前を向いて歩んでいけばいいのです。このような機縁はとても珍しいので、旧勢力の按排に左右されてはいけません。
またある同修はあることでしっかりできていなかったことをきっかけに深い自責の念に陥ってしまい、長い間そこから抜け出せませんでした。それは心がいつまでもうじうじと悩んでいるからです。しかしながら、本当は自らの過ちに気づき、原因を探り出してそれを改めればいいだけで、無意味な自責の念に大切な時間を費やしてはいけないのです(これは反省のことを言っているのではありません)。
他にもこのような情況があります。これは私自身の体験ですが、大法が要求する基準を満たしていない時、初めは非常に後悔して、次こそしっかりしようと心を決めても、時間が経つにつれてまた同じ過ちを繰り返してしまい、そこで挫けて、自分がダメだと思い始めるという状況です。一時期は自らを厳しく律して精進したものの、その後また同じ過ちを犯してしまったことで自信を失い、自分は修煉できる人間ではないと思うようになり、意気消沈していきます。しっかり修めたいのに、肝心な時に限ってミスを犯している原因を探っても見つからず、考えても何も出ませんでした。しかしながら、私はすぐに考えるのをやめて気を取り直し、真面目に三つのことを行いました。大切なのはすぐに立ち上がるということです。転ぶ度に立ち上がって師父の説法通りに、諦めずに自分を修めていけばいいのです。
例えば、マラソンで、皆の先をリードしているのか、それとも、置いていかれたのか、自分の現在位置すら分からないランナー(迷いの中で修煉する同修)がいて、良く転びますし、速度もあまり早くはありません(自分でそう思っているだけです)。このような状態になると、一部の人は「自分はダメなのだろうか」、「これ以上走っても意味がないのではないか」と思いながら意気消沈になり、一生懸命走ることもやめて、もはや歩いてしまい、「どうせだめなら、もういいや」とあきらめる人もいるのです。
しかしながら、この状態で動揺してはいけません。この二度とない「マラソン」に参加できるだけでも非常に幸運なことで、これを逃したらもうチャンスはありません。全力を尽くしてできる限り走り、どうしても走れない時は少し歩いてからまた走ればいいので、決して諦めてはいけないのです。
ですから、いくつかの難を乗り越えられないからといって気を落としてはいけません。我々は広大な背景を持ち、一度きりの位置に立っているので、できる限りのことをしなければなりません。この「マラソン」の一員になれただけでも素晴らしいのです。何度転んでも、どれほど自分はダメだと思っても、想像以上に難しく感じても、最善を尽くして最後まで頑張らなければならないのです。他の様々な要因や妨害に邪魔されずに、どのような環境にいても、しっかりと三つのことをして、決して意気消沈しないことです。
真相を伝えて衆生を救うことは最優先事項です。個人の気持ちや感覚は全く重要ではないので、常人の損得など、すべてを取り除いて、自分自身をしっかりと修め衆生を救って法を実証すれば、「他人を先に、自分をあとにするという正覚」を実践していることになるのです。
あなたを意気消沈させることは全て旧勢力の按排かもしれませんので、本当に落ち込んでしまうと、まさに旧勢力の企みに引っかかったことになります。ですから、名利を顧みず、報いを求めず、まして、一時の状況に陥らずに大所に着目して、常人の理やすべての按排から抜け出して、何もかも超えるような堅い意志で修めるのです。法を得ることは極めて困難であり、修煉する機会を大切にすべきです。大法の慈悲は全てを超越しており、師父の広大な慈悲のお陰で我々は未来に対して十分な自信を持てるようになるのです。
注:
[1]李洪志師父の著作:『精進要旨三』「カナダ法会へ」
[2]李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」