黒龍江省の法輪功学習者の周秀慧さんが受けた迫害の経歴
■ 印刷版
 

  【明慧日本2016年10月8日】2年7カ月拘禁された55歳の周秀慧さんは、苦しみを嘗め尽くして、最後に医者から「すぐにでも死亡する可能性がある」と診断された結果、警官に刑務所の外側へ放り出された。

  周さんは「真・善・忍」を堅持したため、今まで何度も警官に連行された。2008年、周さんは再度連行された後、7年の不当な判決を下された。2010年11月18日、命の危険に晒されている状況下で刑務所の外側に投げ出された。その後、帰宅した周さんは法輪功の学びを通じて、健康をとりもどした。

 以下は周さんが自ら述べた、連行され、判決を下され、苦しめられた経歴である。

  2008年4月22日、私は丁淑華さん、孫霞さん、李艶波さんと一緒に、爾駅の近くの林場付近へ法輪功の資料を配りに行った際、二里屯村の人に通報され、爾駅派出所の警官に連行された。東京城林区公安局の局長ら10数人が、当日の夜すぐに爾駅派出所に来て、私達に対して尋問を行った。警官らは皆普段着で、先ず私達の身体をチェックし、手錠をかけた。身長180センチ、体重100キロぐらい爾駅派出所の所長が、ゴムの警棒でおもいっきり私を殴ったので、私は立っていられなくなり、倒れそうになった。そして、両手にかけられている手錠を掴み、私を空中に持ち上げた。手錠は肉に食い込んで腕が切れ出血した。他の警官はビンタを打ったりした。これらの警官にはまったく人間性がないとその時に感じた。あの日はちょうど生理中で、打たれた腰は真っ直ぐにできなくなった。尋問の後、警官は休憩に入り、私達5人は輪に繋げられ、一晩中立ったままにさせられた。

酷刑演示:抽打

拷問のイメージ図:滅多打ち

  翌日の午前3時頃、二里屯に連れていかれて写真を撮られたり、ビデオを撮影されたりした。行く途中、警官が下品な言葉で私を侮辱した。その後、東京城林区公安局に戻って引き続き尋問を受けた。午後4時過ぎ、私達5人は東京城林区留置場に拘留され、私は暗い独房に閉じ込められた。煉功していた時、留置場の副所長が唾液を私の顔に吐いた。6日目、また尋問を受けた。便所に行く時、私は服をめくって女性警官に背中の傷を見せ「誰がこんなに下劣に打ったのか? 法輪功を学んでいるというだけで?」と言うと女性警官はびっくりしていた。

酷刑演示:野蛮<span class='voca' kid='74'>灌食</span>(绘画)

拷問のイメージ図:野蛮灌食

 東京城林区留置場で、私達が囚人服を拒否したため、24時間独房に閉じ込められたことがある。拘禁されて12日後、私達5人は寧安市留置場に送られた。寧安市留置場での8カ月余りの間、やむを得ず3回断食と断水をした。第1回目の断食をした時、4日間鼻に管を挿し込まれて塩水を注がれた。管は鼻から胃に挿入し、食道は刺激され激しく吐き出し、口の中は塩辛くて渋かった。孫霞さんと丁淑華さんは灌食による迫害を受けた。私と孫霞さんは独房で「大の字」の形に縛り付けられ、それぞれ24時間と9時間閉じ込められた。

  2008年12月、寧安市留置場で労役を強制させられたが、私達が拒否したため、2人1組で足かせをつけられ、すべて一緒に行動しなければいけなかった。寧安市裁判所は相前後して3回開廷し、9カ月後、7年の判決を下した。

  2009年1月21日、私達5人の中の4人が黒龍江省女子刑務所に拘禁された。毎日小さいプラスチックの腰掛けに座らされ、法輪功を中傷するビデオを見させられるなどの洗脳迫害を受けた。話すことを許されず、トイレ、洗面、洗濯などはすべて監視されていた。法輪功を放棄することを強制され、絶えず精神的に苦しめられ、自白を強いる拷問を加えられて、私は背中の痛み、頸椎の痛みと、右手の筋肉が萎縮し自由に動けなくなり、体調まで崩し、ひどい吐き気が続いた。あの1年余りは本当に1日が1年のように長くて辛かった。

  ある日、私は体力と精神力の限界になり、刑務所の程秀艶を訪ね、病院での検査を求めたところ、程秀艶は「死ぬわけじゃないだろう?」と答えた。次に7監区大隊長の王暁麗を訪ねたところ「命が危篤でない限り、一時出所できない」と言われた。その後、同じ牢獄の人が、私の痛みの状況が深刻だと話してくれて、ようやく刑務所の病院に連れて行かれた。院長は驚いて「早く別のところで検査しなさい」と言った。刑務所は家族を電話で呼んで5千元を要求した。家族は非常に心配して、2千元を出した。

  ハルビン市の医大二院で検査したところ、首の中に4つの腫瘍があり、両乳腺にも病変があり、胸脽結核があると診断された。趙宝権医者は怒りが納まらず「何で来るのがこんなに遅いのか? ここまで放置して、たとえ本当の犯人でも人間です!」と言った。警官が診断結果を聞くと、医者は「大変な結果になるかもしれない。この人は生命の危険がある」と答えた。

  刑務所に帰った後、刑務所側は医者の診断結果を聞いて、所内での死亡を恐れてすぐ一時出所の手続きをした。3日目、早く刑務所病院に送ろうとしたが、どうしても受け入れられなかった。8日目、法医検査の途中、私は20数分間意識を失った。程秀艶は私に「お前は手に持っている時限爆弾のようだ。早く家に帰さないと私は寝られない。お前が門の外で死んでも、私達と関係ない」と言った。

  あの時の私は、生きていても死人のように、起き上がられず、横になることもできず、食べられず、水を飲むこともできず、限界だった。最後に、危篤状態になった私は、2010年11月18日に刑務所の外に投げ出された。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/9/11/334300.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2016/9/22/159252.html)
 
関連文章