謙虚と劣等感
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年10月29日】私は毎年の神韻公演のDVDを時間があれば観ているので、すでに繰り返し無数回に見て来ました。しかし、今年に入ってから、観る度に感覚が違ってきました。今晩、神韻を観ている最中に涙が流れてきました。それは恥ずかしさからきているとはっきり分かりました。

 以前、神韻を鑑賞する際、無意識のうちに「大したことはない」と思い、観る回数が増えるにつれて新鮮さを感じなくなって、常人に近い心態で観ていて、時々「これはあまりよくない、あれもどうかなぁ」と勝手に評価し、踊りについて少しの技能があることから、神韻で披露してみたいと妄想したこともありました。しかし、今回神韻を観る際、心からその純粋な善と美を感じました。舞台から発する美は今の現代人が感じ取れるものではなく、純粋な気持ちをもって初めて違う感覚が得られるものです。謙虚と劣等感についての認識も神韻鑑賞の最中に得ました。

 謙虚な人は他人に穏やかな心地よさを与えますが、劣等感のある人は人に、悲しく可哀想な印象を与えます。謙虚な人は他人を引き付ける魅力がありながらも威圧感を感じさせず、むしろ親近感を与え、相手を良い方向へ変化させることができます。劣等感のある人は周囲の人に、助けようとしても根本から助けることができない仕方なさを感じさせ、人に嫌悪感を与えませんが、可哀想で仕方がないという印象を与えます。共に自分を低くし、他人に嫌な感じを与えないという共通点がありますが、「劣等感」は自信の無さが問題です。なぜでしょうか? 劣等感のある人が真っ先に考えるのは自我で、自分が他人より劣っていると思い、「引け目」を感じる気持ちが生じやすいのです。そこには「自我」があって、「自我」を取り除かなければ「引け目」も永遠に付きまとうでしょう。しかし、謙虚には謙遜と譲りがあって、争ったり闘ったりせず、優劣の比較をせず、他人の良さを学びながら永遠に平和的で穏やかな状態にいます。

 皆さん、時間的余裕があれば毎年の神韻公演のDVDを鑑賞してみて下さい。それは常人に与える娯楽番組ではなく、大法弟子にとっても鑑賞の対象や衆生を救うプロジェクトに限るものでもありません。純粋な気持ちで観れば、きっと観れば観るほどそれの良さに気づきます。そこにある巨大なエネルギーが執着と人心を溶かすことができます。純粋な善があれば純粋な美が表れます。善良な人はもっとも美しく、その純粋な善が巨大なエネルギーになります。もし、大法弟子の全員が無私無我で、純粋な善と純粋な美を備えることができれば、それは大法の粒子のこの世での真の現われではありませんか? そのエネルギーが輝き、邪悪をまったく恐れなければ、邪悪は自ら消滅してしまうのではありませんか。師尊に感謝致します!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/11/10/318934.html)
 
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