文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年8月31日】私たちの修煉の中に、一部の同修は絶え間なくいろんな形式的なものを作り出し、その上その形式に執着しています。これらの現象をどう見るかについて、私の個人的な考え方をお話したいと思います。次元の限りがありますので、不適切な所があれば、ぜひ法を師にしていただきたいと思います。
ご存知のように、当初、私たちの各地には輔導站があり、站長もいれば指導員もいました。また、北京には研究会があって、ボランティアの連絡者もいました。個人的な理解では、これらのことはあくまでも常人社会の形式に過ぎず、常人の組織とは本質的に違いがあると考えています。私たちの本当の目的は、修煉することです。その上、修煉自身は「大道無形」であるべきです。
平和な時代には、私達には研究会と各地の輔導站がありました。しかし、それはあくまでも連絡と伝達するためのものに過ぎません。輔導站は普通の組織が持つ機能を備えておらず、学習者との関係も上下関係はありません。連絡者と指導員もボランティアで名簿もなく、誰もが師父のおっしゃる通りに行動し、同じ法を習い、同じように法に基づいて自分の心性を修めます。
大法が世に広くひろまる時、テレビにも新聞紙にも登場せず、宣伝を行いませんでした。唯一あったのは、煉功拠点に掛げられた横断幕に書かれた、大法に対する最も簡単な紹介だけでした。新聞やテレビを使えば、表面上では、宣伝効果が大きくなるように見えますが、しかし、宣伝することによって、一部の人は「○○功はテレビでも報道された」とか、「○○功は新聞でも褒められた」とか、「○○さんはその功を習って病気が治った」とか、そうような考えを持って、功を習いに来るのです。それは求める心を持って来ることになります。しかし、大法が必要としているのは、その人が本気で心を修めたい、心を昇華させたいという、その気持ちです。従って、最大限に、世の中の人には執着心を持たずに、功を習いに来てほしいものです。人数が少なくても、最も純粋な心を持って修煉をしなければなりません。実際に、目に見える形が少なかったからと言って、大法の広がりが妨げられたことはなかったのです。
1999年の7・20以後、迫害されてから研究会がなくなり、輔導站もなくなりました。しかし、皆さんの修煉は、そのために影響されたことはありませんでした。それは私たちの修煉と向上が正しいものであり、形式的なものではないことを証明したのではないでしょうか。
7・20以後、皆さんは次から次へと、北京に法を実証しに行き、また、資料拠点を立ち上げ、そして、外に出てきて、世間の人に真相を伝えるようになりました。その過程において、一部の同修は誰でも北京に行くべきだ、或いは、家にいる人は誰でも資料拠点を作るべきだと考えていました。このように行動することは、間違ってはいませんが、それぞれの人の心性の高さ、当時の修煉状態が異なり、それに到達するにはしばらく時間(それは修煉の過程でもある)が必要であるということを認識しなければなりません。私の理解では、北京に行って法を実証することは、様々な困難を克服しなければなりません。これらの困難には、自分の恐れる心から来る妨害もあれば、友達や親族が理解してくれないことや、大きな環境での恐怖と圧力もありました。自分が着実に修めることによって、一つ一つの問題を解決し、少しずつ高めて行くことこそが、着実に向上することではないでしょうか。この高まる過程は数カ月、或いは数年かかるかもしれません。しかし、いくら長くてもこのような向上こそ、本物であることは間違いありません。
しかし、もし、組織という形式を持って皆にやらせようとするならば、それは、同修が心からやろうとする行為ではありません。その上、「他人がやったから、自分もやらなければ、面目がない」とか、「自分がやらなければ円満成就できない」とか、様々な執着心が引き起こされてしまうのです。さらに、組織の責任者は必ずしも良く修め、よく悟る人とは限りません。現実では、多くの責任者や指導員は落伍して、甚だしきに至っては反対側に進んでしまったこともあります。それに対して、法を護る中で現れた称賛や感動に値する事跡の多くは、組織に頼ることもなく、手本もない中、それぞれの人が、とても不可能なことを神の軌跡のように実現したものばかりではないでしょか。
師父は以下のように開示してくださいました。「大道無形ですので、各種の環境はいずれも大法弟子に提供された修煉の場であり、いずれも修煉することができます。皆さんの今日の修煉は以前の覚者が人間に残した文化にあった小道の修煉ではなく、全人類社会に広めて、皆さんが各自で自分に合う形式を選んで修煉するようになっています。」[1]
私の理解では、形式というのは一つの容器のようなもので、その内容や内包がその中に入っています。修煉にも形式があります。釈迦時代の修煉の形式は森の中で座禅をして、出家して、乞食をして布施を請うというものでした。しかし、私達が修めている大法は、あまりにも大き過ぎるため、それに適合したもっと大きいな形式が必要となります。それは1人の人が着ている服と同じように、その人が大きければ、それなりに、大きな洋服がなければなりません。法が大き過ぎて無辺なほど大きいので、それなら、この「洋服」も無辺なほど大きくしなければなりません。そうでなければ、その人を包み込むことができないうえ、窮屈な感じさえ与えてしまうのです。従って、この「洋服」も大きくして、無辺なほど大きくして、「無形」なほど大きくしなければなりません。
例えば、資料拠点の運営に関しては、ほぼ小規模の家庭方式を採用しています。家庭環境が許すならば、その人は、小冊子の効果が良いと思えば、しばらく、小冊子をたくさん作ればいいし、作る量も、自分の状態によって決めればいいものです。修煉状態が芳しくなければ、或いは他に、もっと良い真相を伝える方法があると思えば、他のことをしてもかまいません。もし、家族が真相を知らず、とても反対するならば、家族との衝突を避けるために、まず、家族に真相を伝え家族の理解を得て、応援をしてもらえるようになってから、自分の家に「小さな花」を咲かせても遅くありません。人の真相を伝える方法が素晴らしくても、もっと良い方法がある、或いはもっと大きな能力があると思うならば、その人は、自分の方法を使って真相を伝えればよいのです。私たちの修煉は、絶えず次元を高めて行くものです。心性の向上に従って、周りの環境も、法に対する理解も、様々な面からそれに相応する変化が起きます。その上、世の中の万事万物はすべて私達が真相を伝えるために利用できるものなので、私達の修煉には、手本もないし、それなら、真相を伝える方法も幾千幾万もあるはずです。当然、多くの人々の協力によって完成するプロジェクトも多々ありますが、それはあくまでも多くの方法のうちの一つではないでしょうか。
個人の体得になりますが、大道無形の威力は、他に圓容で、破壊されにくいところからも現れていると思います。邪悪は大法を迫害して十数年、邪悪らは、ずっといわゆる「ボス」を捕まえれば、大法の全体を破壊できると思っているようですが、大法修煉者には、名簿がありません。邪悪は、研究会の責任者や各地の指導員に重い刑を下す以外、もう施す手はありません。しかし、各地の責任者は、あくまでも名義上のもので、実質的な「指導者」ではありません。私たちの修煉は、真相を伝え、人を救い済度する時、頼っているのは大法であり、師父であります。そのため、大法の真相を伝える活動はずっと影響を受けていません。今日、張さんと李さんと協力して何かをしました、明日、張さんは王さんとまた協力して、明後日、李さんは趙さんと協力して、何かをやりました。みんなは法に基づいてやっており、指導者はいないわけです。そうすれば、誰かが、みんなを間違った方向に導くこともありません。捉(とら)える規則がないため、邪悪にとって手のつけようがありません。
邪悪は迫害の中で、ずっといわゆる「突破口」を見つけようとしました。この数年間、大型の資料拠点が破壊されることがしばしばありました。また、一部いわゆる高く修めた人が、皆に崇拝されていること、また、一部の地区の協調人は、「技術を教えること」、「同修を助けること」を口実にして、常人の中の指導者のように各地に行き、事実上、常人の指導者が「仕事を指導する」のと同じようなことをやっています。また、一部の同修はこれらの協調人を囲むのが好きだという現象もあります。中国共産党は、その統治を守るため、数十年来、民衆の頭に「奴隷根性」を注ぎ込みました。今の人は、独立して考え、独立して仕事をすることができず、どんな事をしても、他の人を見るのが好きで人に管理されることを好み、何かの組織の中に身を置けば、いわゆる「帰属感」を感じるのです。中国共産党の映画の中でもよく、「ようやく党の組織が見つかった」という言葉を好んで使っています。そのため、一部の同修は修煉をしていても、依然として、それは党文化であることを認識せず、良く修めた人に出会えば、或いは良い協調人に遇えば、「あなたについてやります」、或いは「やっと指導者に出会った」という心理が働きます。何かをするのに、法に基づいて考えるのではなく、人を見て行動し、協調人がそう言ったからやる、或いは安心する、そうでなければ不安だという一部の同修も確かにいます。
しかし、師父はどのように私たちに説かれていたでしょうか?師父は、「ある站長の呼びかけですべての人が皆同じことをするのではなく、そうではありません。皆さんが一緒に協力し合って何かを行うという特殊な場合、站長がまとめて協調しますが、それ以外、それぞれの人は皆、積極的に自分の道を歩んでいます。もし何でも統一的に行い、站長の一存で何かを決定し、皆站長と同じように行うのであれば、站長はある境地で成就したら、皆さんは彼の世界の衆生になるに過ぎません。皆さんにこのようになってほしくはありません。大法弟子一人ひとりがみな王になってほしいのです。各自は自分の道を切り開き、自分の独立した果位を成就してほしいのです。」 [2]とおっしゃっています。
個人の理解では、一つの生命として、すべては法に基づいて物事を判断し、何事も自分で独自に考え、自分から進んでやるべきことをやり、自分がやったすべての事に責任を持たなければならないと思います。それこそ一つの生命のあるべき姿ではないでしょうか。
師父は法の中で、以下のように説かれています。「つまり、大道無形の修煉は、実は一種の形のない形式なのです。」[3]
私の理解では、「大道無形」が私達の修煉の形式であるのならば、それなら、この形式は私達が煉功する時の法輪を4回まわす、発正念の時に右手を立てる、足を組む時、男の場合は左足を内側にし、右足は外側にするのと同じように、必ず守って変えてはいけないものだと思います。そうでなければならないと思います。従って、自分の歓喜心によって、或いはもっとよく修めている「高人」を見て、或いは外部の形式が変化したからと言って、「大道無形」の修煉の形式を絶対に変えてはいけないと思いました。
注:
[1]李洪志先生の著作:『各地での説法十』「マンハッタン説法」
[2]李洪志先生の著作:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
[3]李洪志先生の著作:『ロサンゼルス市法会での説法』