修煉の本質を体得する
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文/中国の青年大法弟子

 【明慧日本2017年1月25日】第13回中国大陸大法弟子修煉体験交流会は円満に終了しました。同修たちの交流文章を見て多くの感慨が込み上げてきて、書き出して皆さんと交流したいと思います。

 同修たちの文章を見て、私のもっとも大きな体得は、修煉の本質は着実に内に向けて探し、自分を修めることだと分かったことです。以前の私は修煉においてずる賢い手を使い、内に向けて探すことをあまり好みませんでした。なぜなら、内に向けて探し、自分の執着を取り除く過程はあまりにも痛みが伴うため、直面したくありませんでした。ゆえに、私はいつもこの過程を滑るように通り抜けていき、例え内に向けて探しても、簡単に、いい加減に終わらせてきました。しかも、私は発正念を執着を取り除く良い方法だと錯覚し、何かがあればすぐに正念を発し、邪悪による迫害を滅すればよいと考えていて、事情を招いた原因や、自分が対面すべき人心や取り除くべき執着をじっくり考えませんでした。このようないい加減な修煉の姿勢では、修煉の成果も予想がつきます。

 第13回中国大陸大法弟子修煉体験交流会を機に、私は同修たちの交流文章に深く震撼し、その日の夕方、帰宅途中の私は同修の交流文章『黒巣の中で恐れる心を取り除く』を聞き、涙を浮かべながら歩いていました。同じように中国国内に身を置いている私は、黒巣の中の環境の険悪さが良く分かります。しかし、その中で、同修の真に自分の間違いと不足を認識し、直ちに法に則て自分を正していく修煉の姿勢と勇気に、私は心を大きく打たれました。そのような修煉体験は自分にもあったような気がしますが、ずいぶんと以前のような気がしました。

 意気消沈し、感覚が麻痺した精進しない状態はかなり長く続きました。同修の文章は響き渡る雷のように私を目覚めさせました。私は内心で同修と共鳴を覚えたのは、彼女が間違いを直ちに改め、着実かつ厳粛に真面目な態度で修煉に臨み、師父と大法に対して確固として不動な正念を持っているところです。彼女の正念と勇気に大きく激励されて、自分の修煉における問題点に気づきました。長い間、安逸心に動かされて精進の意志を失い、苦しみに耐えたくない人心を覆い隠しながら、多くの事を実行することこそが修煉だと見なしてきました。

 師父は『轉法輪』の中でこうおっしゃっています。「心性を修煉しないので、功が伸びないのです」[1] 道理が分からないのではなく、苦を嘗めたくないだけです。なぜなら、内に向けて探す過程があまりに痛く、自分を正す過程において勇気と正念が更に必要ですので、苦を嘗めたくないがゆえに、さまざまな口実を利用して、心を修め、執着を取り除く修煉の本質をごまかしてきました。今思えば、それが本当におかしくも、憐れで悲しいことです。

 師父は「修煉者は永遠に自らを修めるしかないのです。人心のわずかな変化も、すなわち向上であり、神々には皆それが見えるのです」[2]とおっしゃっています。私は再び師父の弟子に対する開示、慈悲、励まし、切実な期待と、比類なきほどまでに弟子を大切に思って下さっていることを実感しました。

 また、同修の交流文章を通じて、私は大法修煉者が常にプラス思考で問題を考えるべきで、自分の如何なる不足を見つけても向上であり、良いことであることが分かりました。同修の交流の中で、2回目に恐れる心を取り除く過程で、彼女は自分の狡猾で変異した私心が見え、正邪の戦いの中での自分のひ弱さと利己心を嘆きました。しかし、自分を非難すると同時に、彼女は消極的になったり、または卑屈にならず、落胆もしませんでした。かえって次回においてしっかりとできるように自分を励ましました。これこそが正法修煉者の法に対する正しい信念と勇気です。修煉の中で過ちを犯すのは恐ろしくありません。間違いに気づき、直ちに直していく姿勢をみせることこそが、精進することでありもっとも貴重なのです!

 長い間精進してこなかった私は、ずいぶん皆さんより遅れてしまいました。内に向けて探すと、今までの自分の修煉は余りにも浅く、地に着かないものでした。以前は何かがあれば、すぐに習慣的に同修を探して交流を行い、それが当たり前だと思いました。しかし、それが外に向けて求めていることだと、今になって分かりました。なぜなら、大法弟子の修煉の根本は大法です。手元の大法の本から答えを探さず、誰に聞きに行くのですか? 同修の提案も法から由来するものです。真に心を静めて内に向けて自分の人心や執着を探せば、きっと正しく悟り、向上することができます。 

 先日、師父の経文『その心志を苦しめる』を書き写す際「関という関は全て闖えるべし」[3]を見たとき、私は気づきました。そうです。大法弟子の修煉は厳粛なことで、関の一つ一つをきちんと法理から正しい悟りを得て、はじめて乗り越えることができます。大法からの要求は100パーセント厳格なもので、いかなる人心や漏れがあってもいけません。

 法会に参加された同修に感謝しています。その交流文章によって、私は再び修煉の自信と意志を得ることができました。修煉過程のいかなる小さな向上にも、師父のご教化とご加護が伴っています。慈悲なる師父の救い済度に、なお一層、感謝申し上げます!

 そうです。今から自分を奮い立たせて、師父の指し示された道を精進して参ります

 個人的な認識ですので、妥当でない部分があればご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会への祝辞』
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/30/338354.html)
 
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