―― すべての人と出来事に、慈悲と善の念で対処する
文/河北省の大法弟子 蘭蘭
【明慧日本2012年12月24日】尊敬なる師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!
私は1999年正月に大法の修煉を始めました。歩んできた道を振り返ってみると、本当に辛酸苦楽もあって、とても複雑な心境です。法をたくさん勉強したし、大法の仕事も多くしましたが、心性はあまり高まっておらず、修煉は苦しくて大変でした。いつも大法の基準で同修や家族を評価して、大法をもって他人を修めようとして、自分の言動を大法に照らし合わすことをしていませんでした。目に見えたのはこの同修の執着やあの同修の人心、あるいは家族のここは駄目、あれは間違ったとか、他人の欠点ばかりに目がいきまし。うぬぼれて自尊自大で、家族にも嫌われました。とうとう旧勢力に隙に乗じられて、1年あまり監禁されるまでに至りました。「転向」をしていませんが、修煉者にとって邪悪に監禁されること自体が恥辱だと思います。
一、漬物のせいではない―小さな出来事を通じて、大きな執着を除去する
私は繰り返し経文『沙を淘げる』を読んで、第三者の角度から自分の修煉状態を見直すと、師父は『沙を淘げる』で「一、理智がはっきりしていない人、二、行為が常軌を逸している人、三、執着心が取り除かれず、ますます膨張し、これによって強烈に外に向けて探し、外に向けて求め、理性を失ってしまった人」の三種類の人に言及されました。これは私のことを言っているのではありませんか? 以前この経文を読む時、これはインターネットに関わっている人たちを指していると思いましたが、自分に結びつけたことはありませんでした。今まで、修煉者の高い基準で自分を律しておらず、ただひたすら表面で良い人になるように頑張ってきました。表面上の良い人になるのは他人に見せるためで、内心で着実に自分を変えることこそ、真の修煉です。師父は『精進要旨』「警告の言葉」で「皆さんは人間の状態を変えようとせず、理性からも大法を真に認識するまで昇華しようとしなければ、機会を失うことになります。皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、円満成就できません」、「修煉の中で皆さんは自ら真に着実に向上することによって、内面に巨大にして本質的な変化を生じさせているのではなく、わたしの力に頼り、外在する強大な要素を頼りにしています。これでは永遠にあなたの人間としての本質を佛性に変化させることはできません」とおっしゃいました。
その「本質的な変化」について、私はこう理解しています。つまり、トラブルに遭ったら無条件に内に向けて探して、どんなに耳にさわることでも、どんなに我慢し難いことでも、すべて自分を探して、きっとその中に自分の除去すべきものがある、真の修煉者にとって表面が正しいかどうかは重要ではなくて、裏に隠れている執着心を除去ことこそ肝心です。
法理が分かってから、私は内に向けて自分を探し始めました。それで、自分は本当に次元が低くて、いつも表面が正しいか正しくないかで物事を判断してきたと、はじめて気づきました。一つ例を挙げます。
一時期、事情があって私は数人の同修と一緒に住んでいました。独身のAさんは間食、お菓子などを食べることが好きで、「食べることは人生の楽しみ」だとAさん自身もよく言っていました。私たちが漬物類を買ったら彼女はいつも味見して、気に入ったら食事の時に「食べたいので、出してくれませんか」と遠慮せずに言い出します。しかし彼女が買った漬物はいつもみんなにくれません。だんだんと同修たちは彼女に不満を抱えて、私も少し気に食わなくなって、自分のものを彼女に食べさせないようにしました。しかしそれに気づいたAさんはかえって一層ひどくなり、翌日食事をする時に、私が買ってきた漬物を指名して食べたいと言い出しました。私はとても腹が立ったのですが、メンツを守るために仕方なく彼女に食べさせました。なんと、彼女は私の漬物を全部食べ尽くしました。次回の食事の時、私はAさんに「私はまだ漬物を買ってきていないので、あなたのを少し食べても良いですか」と聞いたら、意外にも彼女は軽蔑した笑いをして、「すみません、駄目です」と答えました。私はかっときて、顔は抑えきれない怒りで真っ赤になって、我慢して食事を終えました。Aさんは私の気持ちを見抜いて、優しさを装ってにこにこして「どうですか、お腹いっぱいになりましたか」と聞いて、そしてぎゃーぎゃーと楽しそうに笑いました。
私は自分を冷静にさせて考え始めました。どうしてこんなことが起きるのですか? どうして私はこのような同修に出遭うのでしょうか? 表面の道理から言えば、私は間違っていません。Aさんは自分の漬物を私に食べさせてくれなくてもいいですが、どうしてまた私を軽蔑して笑うのでしょうか。心を静めて自分を探したら、私は突然分かりました、私はずっとAさんを軽蔑して見下しているからです。表面上、彼女に自分の漬物を食べさせていますが、しかし喜んでそうしたわけでなく、仕方がなくてそうしているのです。彼女も私の考えを見抜いたので、だからどうしても私のを食べたいと言い出します。すべては私の狭い度量が招いた結果です。「相は心から生じる」ので、すべてのことは自分の心によって生じるものです。
法理が分かってすっきりして、私はまた漬物を買ってきてAさんの前に出しました。彼女はかえって食べなくなって、私が何回も何回も彼女に「食べてくださいね」と勧めると、彼女は不愉快そうに「あなた、私を何だと思っていますか? あなただけは心性が高いとでも皆に見せたいのですか? こうする必要はありません」と言いました。気まずくなった私は、自分にメンツを重んじる執着心を見つけました。しつこく彼女に「私の漬物を食べてください」と勧めるのは、Aさんの歓心を買うための「有為」の事で、かえって彼女は気に食わなくなります。それから、食事の時に私は漬物の瓶の蓋を開けてテーブルに置いて、「食べたい人が食べてください」と言いました。そうなるとAさんはまた楽しそうに漬物を食べるようになりました。漬物をお箸で取る時にAさんは私に向って微笑んで、二人の目が合った時に、二人とも会心の笑みをしました。私が「漬物が誘発したトラブルですね」と言ったら、Aさんは「師父は生活の中の小さい出来事を利用して、修煉者の大きな執着心を暴露させてくれます。それに気づくこと自体、実は心性がすでに高まりました。すみませんが、昨日あなたを散々怒らせたのでしょうか」と言いました。私は「いいえ、あなたに感謝します。あなたのおかげで、私は自分の心性の不安定さにはじめて気づきました。あなたは私よりよほど落ち着いています。私はあなたの良くない一面、わがままの一面ばかり見て、あなたの良い一面を忘れがちになっていました。悪い人に直面する時、あなたはいつも落ち着いて悠然として、何度も危険を無事に乗り越えてきました。あなたは私よりよく出来ています」と言いました。二人は心から楽しくて美しい笑みを咲かせました。
(続く)
(明慧ネット第7回中国大陸大法弟子修煉心得交流会)