文/広東省の大法弟子
【明慧日本2012年12月8日】尊敬なる師父、こんにちは! 同修のみなさん、こんにちは!
一、いじめを受けても、相手のために考える
新しい仕事環境に来て、前任のAさんの私に対する態度はとてもフレンドリーとは言えませんでした。仕事の引継ぎはまったく順調ではなくて、また、よく「私が良い気分でいられる時はありませんよ」と言ってきます。辛辣な皮肉の言葉はもっと多かったのです。けれども私は、ずっと落ち着いた態度で「あなたの気持ちを理解できます。あなたは率直な性格の持ち主で、それで良いではありませんか」と言いました。
仕事の引継ぎが終わって、私は彼女のポストに就いてから、今まで彼女がやった仕事に多くのミスがあったことにはじめて気づきました。私は黙々と改善していましたが、時には上司の指示を伺わないといけない時があります。どのように上司と話したらAさんに不利がないようになれるかと、私は悩んでいました。それで、自分の話し方を大法で測ってみました。例えば、上司にこのように話したいのですが、この話し方に「自分はAさんより仕事ができる」という顕示心と闘争心が隠れていることを発見しました。また、あのように話したいのですが、その話し方には、わざと上司に前任の不足を暴露する下心が隠れていて、それはAさんに対する復讐の気持ちで、「善」ができていません。そのように悩む過程は内に向けて探す過程でもあって、私は一つ一つ、大法に符合しない考え方と話し方を否定しました。最後に大法の法理に符合できる、穏やかで人心を帯びない話し方を考え出しました。数日かかりましたが、その数日はとても価値があったと思います。
なぜそのようにするかというと、私は師父の言葉「われわれが口を開いてものを言う時には、煉功者の心性に基づいて言うので、人と人との間の和を損なうようなことを言わないし、良くないことを言わないのです。修煉者として法の基準に基づいて、自分自身がそれを言うべきかどうかを判断するのです。言うべきことは、法に照らして煉功者の心性基準に合致すれば問題はありません」[1]をしっかり覚えているからです。
二、私をいじめる同僚に、内心から感謝する
私たちのオフィスには5人がいて、他の同僚もよくやって来ます。新人である私は、色々と皆の世話になって、感謝の意を込めてたまにお菓子を買ってきて、みんなに配ります。ある日、私が買ってきたお菓子を、前任のAさんは「これ、私は好きではありません」と言って、私に何も聞かずに他のオフィスの人にあげてしまいました。私と他の同僚はまだ一口も食べていませんでした。
またある日、同僚Bさんは風邪を引いて熱が出て、寒気を感じていました。Aさんはこのことを知ると、エアコンのリモコンを2回押しました。室温を2度上げたのかと思いきや、室内がますます涼しくなったと感じて、確認してみると、彼女はなんと室温を2度下げていました。私は本当に言葉も出なくなりました。
私は修煉者の姿勢で身を持するので、上司と同僚から好感を得ていましたが、Aさんは嫉妬して、私が恥をかく出来事が起きるように望んでいました。ある日、ある取引先の社員が当社に来て大騒ぎしていました。もともと私に何の関係もない事ですが、Aさんたちはわざと私のところに誘導して、その取引先の社員は私の机の前でかんかんに怒っていました。私は穏やかに「私たちはただ会社のルールに従って処理していたので、わざと御社を困らせることをしていません」と話しました。結局、彼は私の鼻を指差して罵って、社長のところに私のクレームを出すと言いました。当社の社長でさえ彼にある程度遠慮しているので、誰もが彼の機嫌を損ねる勇気がありません。私は彼の情緒に動かされずに、机に向かって自分の仕事をしていました。Aさんはがっかりして、彼に「あなた、怒る対象を間違えました」と言いました。Aさんは私と彼とのけんかの場面を楽しみにしていたのですが、私は修煉者の心性で対応したので、彼女が期待した場面は現れませんでした。
実はその事が起きた前日に、一匹の甲虫の王が多くの甲虫を率いて私を攻撃するという夢を見たことがあります。私は冷静に甲虫らに「法輪大法が良い」と話して、彼らはすぐに攻撃を止めて解散しました。その取引先の社員の面相は、あの甲虫の王に似ていて、額はとても広くて光っていました。それから、彼は私に会ったらいつもにこにこして「あなたは本当に優しいね」と言ってくれます。
私とAさんと毎日同じ通勤バスに乗っています。ある日、自分の前に立った彼女を見て、私の心は感慨無量になりました。私に多くのトラブルを造った彼女に、内心から感謝しています。彼女のおかげで私の心性が鍛えられて次元も向上しました。私の向上を手伝うために、彼女はこのように非常識に振舞って、私に貴重な「徳」を多くくれました。ここまで分かって私は涙を流しました。今後しっかり修煉しないと、彼女の犠牲にも申し訳ありませんね。
時に同僚たちが私に怒ったり暴言を吐いたりすると、私は彼女たちのために心が辛くなって、私に業を作った彼女たちはいつか楽しくない事やトラブルに遭わされるかと心配します。また彼女たちはその道理を知らないことを残念とも思います。
三、いじめられても、良し悪しを測る基準を忘れない
私は第三者の立場でオフィスに真相を伝えています。Aさんは深く真相を受け止めています。
以前、家に帰ったら職場での出来事、同僚の悪口をいつも家族に話して、家族も私に付和して同僚の悪口を言いました。一時期、しっかり学法をしたために、ある日突然「家族に同僚の悪口を言うことは良くないことで、家族がまた同僚の悪口を言ったら、家族も知らないうちに業を作ることになります。その業は私が原因で作ったため、私も業を作ったことになります。そして、私が他人の良し悪しを議論すること自体が間違いで、大法の要求に背くことです。私が他人の良し悪しを議論する時、どんな基準で判断していますか? 真・善・忍で判断しているか、それとも常人社会の基準と私個人の人心で判断していますか? 特に相手が私を傷つけて私の人心に触れた時はどうでしょうか? 師父はとっくに私達に「真・善・忍は良い人か悪い人かを判断する唯一の基準」[1]と教えています。Aさんを例にすると、常人の道理から見て彼女は良い人とは言えませんが、大法の真相を快く受け入れている点から見ると、彼女は師父に認められた「良い人」ではありませんか。私もこれから彼女を「悪い人」と言ってはいけません。師父は彼女に未来を与えたので、弟子の私が師父の決定を否定するのでしょうか?
法理が分かったため、今後同僚の良し悪しを議論しないだけでなく、同僚が良い人か悪い人かを考える念さえ持ってはいけないと思います。ある日、私をいじめた同僚Cさんが目の前に来て、その途端に私は「この人はどうしてこんなに悪いのでしょうか」とすぐ思いました。しかし、すぐにその念が間違ったと意識しました。その念は業を作ったばかりでなく、修煉者の念に力があるので、私の一念は彼女を「悪い人」と定義してしまったことになります。師父は世間の人々に救われる機会を与えて、邪悪な生命に対しても機会を与えて待っておられるのに、大法弟子である私が世間の人を「悪い人」と定義する権利はどこにあるのでしょうか?
接触したすべての人を私は大切にしています。用事でとても短く会社に来た人でも、一度しか会う機会がない人でも、私はすべて電話番号を聞いて、その後、電話番号を真相メールを送る同修、あるいは真相電話をかける同修に伝えて、その人に真相を知る機会を与えます。私は自分の部門と取引がある人の電話番号を定期的に同修に教えています。「真相を知りたいなら、済度されたいなら、当社と取引をしましょう」と心で客さんたちに言っています。毎月、私は同修に数千人ものの電話番号を渡しています。私が所在する部署はずっと、とても商売繁盛しています。常人はマーケティング戦略や経営理念などを言っていますが、実は三界のすべては大法のために作られたと師父はおっしゃいましたね。
四、師父が按排された修煉の道をしっかり歩む
ある日、他部署のDさんは私に「お姉ちゃん、あなたはどのように仕事をしていますか、あなたから経験を学びたいです」と願いました。彼女の話に私はとても嫌になりましたが、表面上は「私には伝授できるほどの経験がありません」と言いました。それでその日は気分が悪くて、「今日まで仕事ができるようになって、私は多くの苦を嘗めましたよ。前任のAさんは何も教えてくれないだけでなく、またあれこれと私を困らせていました。私は職場の環境に慣れる努力もしないといけないし、仕事経験を積みながら新しいやり方も模索しなければならず、またAさんが残したことの後始末もしないといけませんでした。その中で心性を高めて、師父から授かった知恵を武器にやっと今日まで頑張ってきました……」と、憤りながら考えました。そうですね、すべてのすべては師父が与えてくれたもので、どうして自分の些細な経験をDさんに教えたくないのでしょうか。それは自分の私心ではありませんか?
帰り道にまたその事を考えていました。私心を見つけたのですが、さっさと取り除かなければいけないと分かっていても、心の中ではどうしても捨て難かったです。何回も考え方を覆して、最後にやっと「いずれ人心を除去しなければならないので、早いほうが良いです」という考えに落ち着きました。それで心がぱっと開いて明るくなりました。自分のためという私心がない状態は、本当にとても心地良いものです。しかも、それからDさんは二度とその話題を私に振ることはありませんでした。慈悲なる師父は私の私心を取り除かせるために、その事を按排されたのです。
私の職場の環境は師父が按排してくださった修煉環境そのものであり、それを大切にしてよく修煉しなければなりません。環境が複雑であるほど私に対する要求も高くなり、私はそこから抜け出てはじめて、師父の期待に答えられるのです。師父よ、私はきっとしっかり修煉します! そのために、いじめられても私は変わらず同僚のために考えて、いじめられても心から同僚に感謝して、いじめられても私は自分の使命を忘れずに、いじめられても私は自我のための私心を除去します。
[1]李洪志師父の著作:『転法輪』
(明慧ネット第9回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)