色欲を断ち切る
■ 印刷版
 

文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年5月22日】最近、色欲に言葉にならないほど苦しめられました。古い弟子として、長年修煉してきて、度々いろんな試練に立ち向かって来ました。しかし、この問題に対して、何故かずっとだらだらして断ち切れず、自分が本当に悪いと心の中で恥ずかしいと思うと共にとても焦りました。

 実は、このような状況から抜け出そうとしましたが、色欲という物質に取り憑かれ、なかなか切り捨て難く、徹底的にそれを断ち切ることは、それは自分ではないと分かっていながらも、正念が十分でなく、結局思い切って振り切れませんでした。

 この数日間、二つの考え方が頭の中で一進一退して、人心と正念の衝突の中で浮き沈みし、暫くしたら、常人の状態に相応しくしなければならない、リラックスしなければならないと言い訳をし、暫くしたら、こうしてはいけない、修煉者として責任が重大で、このような汚い観念を持って三つのことをしっかり行えるはずがないと正念が強くなったりしました。

 正念が強くなれば理性的になり、人心と欲望が勝ってしまえば戸惑い、このような不安定な状況は昼間も夜も続き、本当に言葉にならないぐらい苦痛でした。

 大法の中から関連性のある章節を選んで読み、法を学ぶ時もいつもどう対応すべきかを考えました。そして、大法弟子の交流文章からたくさんの色欲を断ち切る文章を探し出しては、1篇また1篇を読みました。こうしているうちに気持ちは少し落ち着いて来て、この関門を突破しようという気持ちが強まりました。

 自分は何でも分かっていました。どの角度から見ても、古い弟子として色欲を断ち切るべきだと分かっていました。法理ははっきりと述べられており、問題は自分が決心できるかどうか、そして、最後までやり遂げるかどうか、それだけでした。

 しかし、その狡猾な観念は何度かこの欲望を残そうとして、必死に私の頭に反応していました。決断しなければならず、曖昧にしてはいけないと思いました。

 色欲に付き纏われ、極めて苦しい時、私は師父に助けを求めました。法を学ぶと、目に飛び込んできたのは「あなたが欲しがるなら、誰もそれに干渉できません。これはこの宇宙の理です」[1]、「この宇宙には、自分の求めたもの、自分の欲しがるものに、他人は干渉しないという理があります」[1]、「この宇宙には『自ら求めるものには、誰も干渉できない』という理があります。あなた自身が求め、希求していれば、誰も干渉できません。わたしの法身はあなたを止めたり、悟らせたりはしますが、いつまでもそんな状態にいると見れば、無理やり修煉させるわけにはいかず、あきらめざるを得ません。強制的に修煉させることはできないのです。理も法もはっきり教えてあげましたが、それでも自分自身を向上させようとする意欲が湧いてこないのだとすると、誰を恨むことができますか? あなた自身が欲しがっているから、法輪もわたしの法身も干渉しません。これは絶対です」[1]でした。

 「自分がこの色欲を手放したくなければ、誰も助けてくれない、なぜなら、それは自分がそれを欲しがっているからだ」と悟りました。大法は万能です。しかし、何がほしいかは自分の選択次第です。自分は一体何を求めるのか、真に修めようとするのであれば、自ら執着や欲望を放下しなければならず、さもなければ、修煉を誤魔化し、中途半端なものにし、自らを騙すことになります。

 最後に、私は修煉の決意を固め、徹底的に色欲を放下しようと決めました。すると、長く私に付き纏っていた色欲という物質が急になくなったと感じました。その一念を固めただけで、師父は私のためにそれを取り除いてくださいました。私は師父に深く感謝しました。師父は「動揺しない人なら、業を消すことができます」[1]と説かれました。物質と精神は同一のもので、邪念が生じれば色魔がやって来るし、正念が生まれれば物質は一掃されると悟りました。

 振り返って考えれば、修煉の過程に於いて、すべては選択と決断の過程ではないでしょうか。当初、修煉の門に入って来る時もそうでしたし、その後、大法弟子として修煉をし、法を広め、陳情し、真相を伝え、江沢民を告訴するまで、すべて「修は己にありて、功は師にあり」[1]の法理の再現でした。弟子としてただ向上したい、しっかりやりたいという願望があれば、本当のことはすべて師父が私達のためにやって下さいます。心が正しくなければ誰も助けてくれません。自分の心を正しくし、真に大法の要求通りに行えば、いきなり基準に到達出来なくても、心を正しくする前提に、きっと一歩一步と進んで行くでしょう。心が正しくなければ修煉はきっと足踏み状態になり、甚だしきに至っては下へ滑ってしまうことになるのです。

 長く修煉しても、自分を少しでも緩めてしまえばいろんな人心がまだ戻って来ます。それを認識することが出来なければ、修煉は途中で失敗してしまいます。それこそ最も心が痛むことではないでしょうか。いずれにしても、修煉は決して気を緩めてはいけません。最後になればなるほど基準が高くなり、最後になればなるほど直面する要素も高くなります。法を正す期間の最後の最後に、自らを厳しく要求しましょう。安逸心などによって億万年も待ち続けた、この永遠に巡り会えない修煉の機縁を台無しにしてはいけません! そうなれば、生命が永遠に悔やんでも悔やみきれないことになるでしょう!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/5/6/346840.html)
 
関連文章