仕事をする心の背後にある執着への浅い悟り
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年11月20日】ここ最近、自分の真相資料点を辞めることにして、他のプロジェクトに参加することにしました。それ以来、自分の修煉状態はあまりよくありません。

 自分の修煉状態を見て私は戸惑いました。修煉状態が悪くなったのは何故なのでしょうか? 今までは真相資料を作成し、配りに出かけ、生死を度外視して活動してきました。至る所に監視カメラが設置されている環境の中で師を信じ、法を信じる正念だけを頼りにし自分の道を切り開き、毎日、主意識を強め、自分のすべてを師父に託し、個人の安否を放下して、衆生を救い済度することだけを考えて実行してきました。

 しかし、資料点を解散してから、自分に依頼心が芽生えたことに気づきました。資料点がないのでとても安全なのだ、もう恐れることは何もないので、街道管理事務所の職員が来ても平気で、声を張り上げて話すこともできる、もう何もしてないので、怯える必要がないのだと最初から考えました。

 この考えには、実は漏がありました。

 私はこの考え方は自分を守ろうとしており、この常人の方法は功を奏するのだという認識に陥ってしまい、しかもこのような考えは、もう法の上で認識したものではありませんでした。

 この文書を書きながら、私は更に認識できるようになりました。漏れは正に自分の一念から生じたものでした。たとえ自宅で資料の作成を辞めたとしても、自己を保護したい心、常人の手段を取ってまで自己を保護したい思惟はあってはならないものでした。私のこの一念が生じると同時に、次元が下がることになりました。

 いかなる時にも、強大な正念の場を保ち、邪悪を解体することを怠ってはなりません。

 以前資料を作成していた時には、頭の中は清浄かつ純正だったのですが、新しいプロジェクトに参与してからは、頭の中で常に何かを考えていなければなりませんでした。私が何かを始めれば、そのことに集中してしまい、そのことに没頭してしまいます。ゆえに、学法煉功、正念を発するときに入静できず、自分の気持ちは仕事をする状態にいつも陥っています。

 このことから、修煉は絶え間なく理を悟らなければなりません。異なる次元に異なる理と更なる要求があるのですから、問題点を見つけてその執着を取り除いてこそ、初めて昇華することができるとわかりました。

 仕事をする心の背後にあるのは自己中心的な人心です、自分の事はとても大事であり、自分の考えだけはとても大切だという人心なのです。しかし、自分の意に沿って実行してみると、物事が円滑に運べるようになるのではありません。私の意見はそれほど重要なものではないと同修たちもそう思っているそうです。

 自我に執着することは、最も根本的な執着だという事に気づきました。これまで私は自分に執着して、自分の考えに執着して、自分のしたいことに執着していました。

 私達は自我を重んじる観念を薄ぐようにし、すべての事は師父がなさっていることを再認識しましょう! 全てを師父が按排されているのですから、これ以上見失わないようにし、自分は何かの変化をもたらすことができるという考えを、いつまでも抱え込まないようにしましょう!

 物事の成り行きに任せれば、むしろ逆に良い結果をもたらします。なぜならば、師父が私達に要求された心性の基準に達していれば、問題もすんなりと解決に向かうはずです。個人の理解ですが、師父が私達に按排された衆生を救い済度する過程において、私達の向上が最も重要視されているからです! ゆえに、私達は自分をより良く修めてこそ、はじめて自分の使命を果たせるのです! 自分の心を修めて意地を張らず、自分が置かれた環境に溶け込むことができれば、ようやく物事を上手く運べるのです。没頭して思索にふけって、試行錯誤してばかりではいけません。その試行錯誤には常人的な解決策が多く含まれているのです。

 もうこれ以上、常人の小手先的な対応に頼ってはなりません。すでに慣れてしまった解決策を放棄し、自分を改めて、法の上で考え、師父が要求されている通りに実行し、心性を高め、時々刻々に、真・善・忍で律し、物事の流れに従って行わなければなりません。修煉者の清浄、無為な状態で、すべての事を丁寧に扱い、焦ってむやみに物事を押し進ませないように心掛けることができれば、これこそ修煉なのです。

 以上は個人の浅い悟りです。同修の皆さん、ありがとうございます。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/9/22/353957.html)
 
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