アルゼンチン弟子の修煉体験
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文/アルゼンチンの大法弟子

 【明慧日本2020年6月24日】

 尊敬なる師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私は2010年に法輪功を学び始めました。母は1999年の迫害が始まる前に修煉を始めた古い弟子です。その時、母から法輪大法のことを聞きましたが、私は気に留めませんでした。

 ずっと海外で暮らしていた私は、2人の娘に中国語を勉強させるため、2010年に娘たちを連れて暫く台湾に帰省しました。台湾にいた時、娘たちは法輪功学習者が開いた「明慧幼稚園」に通園し、幼稚園の用事などを通じて私は学習者たちとよく接触していました。台湾を離れてドイツに向かう数カ月前に、学習者たちは「漢服(中国古代の衣裳)展示会」を開くために、背の高い私にモデルをするよう頼んできました。喜んで引き受けた私は、それから多くの時間をかけて台湾の学習者たちと一緒に稽古をしたり、展示会の準備をしたりしました。稽古をする前に、彼らはいつも一緒に学法をし、貸し切りバスで展示会場に向かう時も、みんなで『論語』を暗唱しました。数年前、母の影響で私は『轉法輪』を読んだことがありますが、あの時、修煉はとても難しそうで時間もかかると思い、修煉をする決心はありませんでした。今回、私は何回も『轉法輪』を読んで、ついに人生の意義が分かり、生活の中で出遭ったいくつかの問題の解答も見つかりました。そのように、法輪大法と長年すれ違っていたのですが、台湾を離れる前に大法弟子になりました。これは本当に奇跡とも言えます。

 内に向けて探す

 父の仕事の関係で我が家は頻繁に海外を転々とし、私の少年時代は5カ国の七つの学校に通いました。そのため、幼い時から自分を守るために仮面を被って、周囲の人に合わせて好かれたいと頑張り、新しい環境に受け入れてもらうために「計算」は必要だと思っていました。心の不安が原因で、私は流されやすい性格になり、嘘もついて、道徳の問題も含めて多くのことを気にかけなくなり、軽々しく対処していました。修煉を始めた私は、これらの性格の欠陥のために、人間関係で大きな過ちを犯しました。しかし毎回のように、私は恥ずかしいと思ったり、心から悔い改めたりすることもなく、そのことにおいての責任を無視して、あっさり過ごしていました。そのため、繰り返し心性の関に遭いました。

 『轉法輪』にこんな言葉があります。「煉功の時にあれこれと妨害が現われてきた場合、まず自分自身から原因を捜し、まだ何か捨てなければならないものがあるのではないかと考えるべきです」 [1]。数年来、内に向けて探していないため、私は原因が見つからず、かえって自分の誤りを見落とし、真面目に直面しようとしませんでした。私は過去の誤りを忘れることができれば、過去の過ちは私を傷つけることは無いと思いました。しかし、それに直面しなければ、次回に似たような情況が現れたら、また克服することができないと思いました。師父の言葉に「しかし、乗り越えられなくても平気でいられる者は、今後もっと自己制御が難しくなります。絶対そうなります」 [1] の通りです。

 法輪大法を修煉してからは、内心が落ち着いてきて、楽しい気持ちでいられるようになり「本当に師父に感謝している」と、よく友達に話します。しかし、どうして私は依然として過ちを犯したり、感情の渦の中に陥ったりするのでしょうか? 幼少期から形成した執着心を取り除いていないからです。歪んでいる念はどんなに小さくても、修煉者を正しい道から離れさせ、転んでやっと目が覚めます。特に今、生活が以前より心地良く楽しくなる時だからこそ、歪んだ念を排除しようという意識を緩めてはいけません。

 師父は「修煉はきわめて苦しく、非常に厳粛なことです。ちょっとでも油断すれば、堕ちてしまい、長い間の努力が一瞬にして台なしになるかもしれないのです。ですから心を必ず正しくもたなければなりません」 [1] とおっしゃいました。心性を高める機会を真面目に扱っていないことは、自分の修煉を厳粛に扱っていないことに等しいのです。更に言いますと、師父の慈悲を無駄にするのと同じです。

 良い修煉環境はとても貴重である

 私が居住していたアルゼンチンの首都・ブエノスアイレスには貴重な修煉環境があり、同修たちは互いに協力し合っています。学習者数がほかの国と比べて比較的少ないのですが、アルゼンチンの大法弟子は負けずに多くのプロジェクトを行なっています。神韻公演、大紀元新聞、スペイン語版の「美しい人生」、毎日中国大使館の近くで真相を伝える、週末にはチャイナタウンで真相を伝える、政府と国会に真相を伝える、江沢民と羅幹に対する刑事告訴も行ないました。輔導員を除いて、すべての学習者は現地の西洋人で、大半の人はブエノスアイレスで暮らしています。

 2016年、美食は人と接触して友情を築くための良い架け橋で、高品質のレストランを持てば主流社会の人を惹きつけられると思う一心で、私と母はブエノスアイレスで台湾レストランを開きました。5人の同修が相次いで来店し、アジアに行ったことがなく、アジアの味も知らない彼らは、1カ月内に奇跡的に台湾料理の作り方をマスターしました。不動産の仲買をやっている同修のおかげで、我々は繁華街に店を出すことができました。繁華街に立地すれば、常連客のネットワークを早く作れるのです。レストランの経営は順調で、私たちの料理とサービスは顧客から好評を得ました。多くの同修が常人の仕事を辞め、いまは14人の同修がフルタイムで働いています。同修の皆さんの勤勉と献身がなければ店は成功できないと思います。我々は店で真相を伝えることもでき、安定した収入も得られます。彼らはみな西洋人ですが、料理の腕前がとてもよく、中国人客でさえ「コックはきっと中国人だろう」と思うぐらいです。職場で給料をもらいながら「三つのこと」を行なうこともできて、これは、なんと貴重な機会でしょう。私たちの中では一つの規定があります。つまり、どの顧客に対してもレストランを離れる前に、法輪大法の基本状況、中国共産党による迫害の現状を知ってもらうことです。

 一日の仕事が始まる前に、従業員たちは一緒に学法をします。初めの頃は、よく『轉法輪』を一講、読み終えることができず、慌ただしく本を置いて仕事を始めなければなりませんでした。いまは、従業員全員が毎朝『轉法輪』を一講読み終えてから始業し、始業時間を初めの頃より1時間遅らせました。それなのに店の営業には支障をきたしませんでした。これは、大法を第一位に置くことで、すべての事が順調に運ぶということを裏付けています。レストランを開業してから、私たちは近くの中央駅に煉功点を開設しました。煉功点周辺の通行人は非常に多く、そこには常に1~2人の同修がいて、法輪功のチラシを配布しています。

 相手を怒ることは、嫉妬心に由来する

 私はすぐに相手の是と非を判別しようとする癖があり、従業員がミスを犯した時には不満に思って怒ります。私の考えは「そうだ、私は大法弟子だ、真・善・忍の原則に従わなければならない。しかし同じミスを再犯させないためにも、私は厳しくしなければならない。レストランの業務はサービス業で、どのミスも業務を損なうので、彼らに指摘することは正しいのだ」ということです。もちろん、それは自分の嫉妬心を隠すために付けた理由にすぎません。自分はどうして苛立つのかを考えたら、以下の二つの原因が見つかりました。1、相手に尊重されていない時、相手は失礼な人だと私は思うのです。2、自分はとても品格が良いので、褒められるのが当たり前で、指摘されることはあり得ないと思うのです。

 自分のことをとても良いと思うのは、つまり自惚れていることです。それは誇示、傲慢、虚栄に由来していて、最終的な根源は嫉妬心です。私は嫉妬心を取り除きたいのですが、嫉妬心は私が持っている、とても深く隠れている執着心の一つであることも否定できません。いままで、私はずっと嫉妬心を隠して守ろうとしていました。親切で魅力ある人と思われたいので、周囲の人と競争することを通じて自分が目立ちたいのです。それで、私は思わず相手の欠点と欠陥を探して批判したりします。また、同様なことにおいて、私はよく自分を相手と比較して、相手よりも少し勝っているようだったら、密かに嬉しく思うのです。

 先日、明慧ネットでこんな交流文章を読みました。主人公はとても頑固な人で、いつも自分の考えを相手に押し付けて、思うようにしない娘に手を上げたこともあるそうです。数年前、私も娘に対して同じ事をしました。主人公は中国に住んでいる学習者で、不当に逮捕されて2年も拘禁されたそうです。もし私が、中国で生活していれば、修煉の中で真面目に自分の執着心に対処しない軽率な態度が原因で、逮捕されて迫害される羽目になる可能性があると思うと、私はとても恥ずかしくなりました。

 私はほとんどの顧客と、とても友好的な関係を保っていますが、女性客のAさんは異例です。Aさんは以前、同僚と一緒によく来店していましたが、最近はあまり来なくなりました。彼女はいつも荒っぽくて、特に私に対してです。店の従業員全員が彼女を友好的な態度でもてなしているのに、彼女は不愛想で、特に私に対しては軽蔑した態度をとります。彼女の前で私は、冷静さを保ってサービスを提供していますが、心はその態度に傷ついて「これは不公平だ」と思ってしまいます。ある日、私がいない時に、Aさんは店のマネージャーに「最近、店に来なくなったのは、オーナー(私)の従業員に対する態度が気に食わないからだ」と言ったそうです。それを聞いた私は、とっさに「不愛想なAさんには、私とこのように議論する権利がない」と思いました。しかし改めて考えると、彼女は正しいと思いました。私は修煉者で、常人に指摘されるなら、たとえそれが顕著な欠点ではなくても、きっと私の修煉に問題があることを意味しています。それから私は少し良いほうに変わりました。すぐにかんしゃくを起こさず、従業員に対する要求も少し緩めました。従業員が私の思い通りにしない時に、私は依然として思い煩いますが、今までのように自分の執着心に従って彼らを怒ったりせず、代わりに建設的な提案をして、どのように改善できるかを彼らと話し合います。

 神韻チケットの販売に尽力

 アルゼンチンでは2013年から、神韻公演を行ないました。アルゼンチンに近い国では上演していないため、アルゼンチンで少なくとも10回以上、上演してはじめて採算が取れるのです。首都・ブエノスアイレスは人口1千万の大都市で、文化を好む伝統が受け継がれています。一方、アルゼンチンの政治は不安定で、国の経済にも影響しています。チケットの売上高は年々増加していますが、公演の直前まで完売できずに、気を緩められません。

 神韻チケットを販売する過程は修煉の過程でもあり、私たちは安逸心のほか、焦る気持ち、失敗を恐れる気持ちなどの情と関係ある執着心を除去しなければなりません。師父は「それに、後顧の憂いもなくなり、厄介なことも全部なくなれば、何をもって修煉するのでしょうか? 気分よく楽に煉功しようとでも考えているのですか? そんなことがありえますか? それは常人の立場で考えたことに過ぎません」、「修煉は、錬磨の中でこそしなければなりません。常人の持っている七情六欲を放棄することができるかどうか、それらに対して淡々としていられるかどうかが問題です。どうしてもそれらのものに執着するのであれば、修煉を成就することはできません」 [1]とおっしゃいました。私たちは多くの努力をしてレストランの常連客に神韻を勧め、数年来、多くの客がチケットを購入して神韻を鑑賞しました。

 ある常連客は、数年前に神韻公演を鑑賞したことがありますが、よく覚えていないと言っていました。彼は神韻が伝えているメッセージをまだ理解していないようです。その日、私たちは彼と神韻についてたくさん話しました。後日、彼はチケットを1枚、買いたいと言って、初回公演のチケットを買いました。別の日に、また劇場で彼を見かけて、驚きました。彼は「神韻を鑑賞して、とても感動し、自分のためにチケットを1枚買い、また父と妹の分も買った」と教えてくれました。

 米国、オーストラリア、ヨーロッパ、メキシコからの観光客も私たちのレストランに来ます。多くの観光客は神韻のことを聞いたとか、神韻の広告をみたことはあるが、観に行ったことはないと教えてくれます。店で私たちから詳しい紹介を聞いて「帰国したら、神韻公演を観に行く」と言ってくれる観光客も多くいます。

 修煉の中で私は多くの誤りを犯していたのですが、師父はずっと私に希望とやり直す機会を与えてくださいました。アルゼンチンで修煉の良い環境と良い機会をくださった師父に感謝します。師父の慈悲および大法弟子としての光栄に背かないように頑張っていきたいと思います。

 最後に、師父の言葉を借りて私の発表を終えたいと思います。「しかし、これほど大きな法が世に伝え出されたのも、必ず目的があります。それは世の風紀が乱れ、人類の道徳の堕落が人類に危険をもたらしたためです。ですから、大法は衆生を救い済度するためにこの世で伝えられたのです。従って、真に修煉する弟子は、衆生を救い済度する責任があるのです」 [2]

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の経文:『アルゼンチン法会への祝辞』

 (2018年ワシントンDC法会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/1/370430.html)
 
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