文/日本の大法弟子
【明慧日本2020年8月18日】明慧ネットに「考え方を変える」という文章が掲載されました。私はこの文章を見て、同修たちと交流したいと思います。大法の各プロジェクトの中で、或いは自分の修煉の中で、いろいろな困難やトラブルにぶつかる時、往々にして、プロジェクト自体がまだ進んでいないのに、すでに困難やトラブルに疲れ果てています。この中で多くの同修は頑張って自分を修め、漏れを補っているのに、プロジェクトがなかなかより良い状況にならないと感じています。原因は何でしょうか? 妨害の要素が多いのですが、自分が認識できるところから私の考えを話してみたいと思います。
トラブルが現れたら、単純に自分の心の許容量を増やそうと考えてはならない
プロジェクトの中で考えが異なるため、互いに争いを起こして、トラブルが出て来た時、一部の同修はこの現象に対して、落とし穴があるのです。それは単純に、「自分の心の許容量を増やすべきで、忍を修めなければならない」と認識するのです。
プロジェクトの中で、私たちは互いに協調し、協力し、受け入れ、さらに忍耐する必要があります。しかし、単純に自分が我慢して、心の許容量を増やすべきと認識すれば、実際の問題を解決することができず、同じトラブルがまた現れるでしょう。我慢が限界に達したと感じると、消極的に協力するとか、どんなに深刻であっても関わらず、新たに始めることなく、相手がうまくいかない事を期待する人がいます。これは嫉妬心です。
実は、私たちが行なっているすべてのプロジェクトは、師が法を正すことのお手伝いをして、衆生を救い済度するためのものです。そのため、プロジェクトをしっかり行なうこと自体が非常に大事です。トラブルを起こした原因について、やり方が適切でないとか、考えが現実からかけ離れているとか、救い済度される衆生の立場に立たないで物事を考えているとか、習慣的な考えで主観的に物事はこうやるべきだと、自分の意見を強調するでしょう。修煉者として、もちろん忍は必要であり、心の許容量を増やす必要はあります。しかし、トラブルを起こした根本的な原因は何でしょうか。何の基点に立ってこのことを考えているかについて、私たちは理性的に考えるべきではないでしょうか?
私たちは何かをし、何かを考える時、いつも習慣的なやり方、習慣的な方法で考えています。もしこの考え自体が法から逸脱していれば、行なったことも法から逸脱する可能性が高く、本人は気づきにくいのです。トラブルが現れたら、また習慣的に考え、習慣的に修煉して、引き続き繰り返してしまいます。
師父は、「人間は現実の生活の中で形成された観念とそれらの良くないものをすぐに取り除きにくく、習慣になったものに関しては、その習慣を改めなければなりません。考え方がすでにそのようになっていれば、考え方からそれを正して、はじめて再び問題にならないのです」[1]と説かれました。
このような習慣的な思惟や考え方があるかどうかについて、私たちは自分自身の思考の癖をしっかり見直す必要があると思います。プロジェクトに関わる場合、具体的に以下の4点に注意すべきだと思います。
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完全に法の基点に立っているか? その裏に隠れた執着心はないか? 例えば、自分を実証したいなどの顕示心があるか。
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理性的に、現実的観点から全体的にこのことを考慮しているか? 私たちは現実から逸脱して、勝手な予断に基づいてことを運んではいけません。こうすれば、人に理性的でないという印象を与え、マイナスの影響を与えます。一つのプロジェクトの中では、異なる役割を発揮する様々な人が必要で、全体的に考慮するとは、すべての要素を含めて考慮するということです。全体を無視して、自分だけが行なうということではありません。
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具体的なやり方がすでに決まっている場合、どこかに漏れがあると気づいたなら、静かに補えばよいのです。
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私たちが完全に法に基づいており、プロジェクトの中に法とずれるところが見つかれば、同修も法を守る立場に立って、間違ったら必ず直すと信じて、理性的に同修と交流すべきです。
これは私の今の次元の認識ですが、私の認識に限りがあるので、もし不適切なところがあれば、ぜひご指摘をお願いします。純粋に法に基づいて自分の一思一念が正しいかどうかをしっかり確認する習慣を身につけて欲しいのです。
法を守るためだと、自分の修煉を無視する
大法を実証するプロジェクトの中で、特に神韻、明慧、新唐人、大紀元などのプロジェクトは、重要で大事なので、私たちはこのプロジェクト自体を維持しようという心も強いのです。同修たちが協力し合う時、トラブルが起こることは免れません。トラブルを解決することについて、私は一つの現象を見つけました。ある同修はプロジェクトを守る心が強すぎ、叱責や、争う形でトラブルを解決し、非常に強い態度で相手を圧倒しようとします。この同修の認識は、大法を破壊することなので、許すことができません。
師父は、「あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです」[2]と説かれました。
この同修の法を守る気持ちは良いことだと思いますが、その中に、闘争心と自己中心の心があります。自分が法を守ることだけを重視しますが、自分を修めることを怠ってしまいました。恐らくこれも一つの習慣的な考え方でしょう。
実はこれらのプロジェクトに関わった同修はすべて法を守る心があります。不適切なところがあれば、指摘すれば協力してくれるでしょう。もし協力してくれなければ、関連する管理者に反映すれば、問題は解決できると思います。しかしこの厳しい方法で問題を解決すれば、後の仕事にマイナスの影響を与えます。法を守ることは、激しいやり方を使って対処することではないのです。私たちは平和的な方法で、平穏な心を持って、法を固く守ることができます。
修煉の中で現れた様々な感情と状態
人間は生活の中で多くの観念を形成します。もし観念が強ければ人に影響を与え、さらに、人の一生に影響を与えます。修煉者として、これらの観念を淡泊にする必要があり、取り除く必要があります。しかし、一部の観念について、本人は完全に気づかない可能性があります。
例えば、私が住んでいる所にある女性の同修がいます。この同修は修煉に対して非常に努力し精進しています。しかし、この同修は家庭の関が大きく、関を乗り越えるため、長い時間、発正念をしてもいつも効果がないと感じており、自分の発正念の力が弱いというイメージを持ち、果てが見えず徐々に落ち込んでいました。
明慧ネットに、多くの新しい同修の交流文章があります。これらの新しい同修は修煉の時間が短いのに、発正念の力が強いのです。何故でしょうか? 真に修煉したら、私たちの能力は大きくなると思います。能力を発揮できないのは、それを邪魔する多くの観念や習慣的な考えが、私たちの能力を完全に発揮させなくしています。
例えば上記の同修は、発正念についてあまり効果がないと感じています。効果がないと感じること自体に本質的な問題があります。効果があるかどうかは別の空間に反映され、すぐ人間の側に反映されるとは限らないのです。効果がないと感じるのは、発正念について求める心があるのです。つまり効果を求めています。自分が発正念をしたら、効果をみたいのです。効果が見えない場合、自信がなくなります。この求める心(執着心)自体は発正念に影響を与えます。旧勢力はこの執着する心を見ると、この執着心を強めて、更にあなたに効果がないというイメージを感じさせます。実はこの時、すでに旧勢力のわなに入りました。効果がないと思うので、発した正念も弱くなります。これで知らず知らずのうちに難の期間を伸ばし、果てが見えなくなり、落ち込む状態に入りました。それは次から次へ繋がります。この同修はこの状態を突破したいので、一生懸命に法を勉強し、すこし落ち着いたと感じ、また引き続き発正念をしています。
この同修が法の勉強を通して落ち込む気持ちから脱したいと思うことは素晴らしいことだと思います。しかし、この同修はその当時、何かを行なったら、すぐ結果を得る考えと、希望が持てない感じと、落ち込んだ気持ちは修煉の中で取り除くべきだということに気づいていませんでした。師父は「求めずともおのずから得る」[3]と説かれました。
わたしたちは純粋に法に基づいて行なっていれば、この過程の中で絶えず自分自身を修め、法の基準に達すれば、自然に良い結果が得られるのです。
常人社会の中で修煉しているわたしたちは、人間の体があり、人間の感覚もあり、いろいろな感情や状態があります。この感情や気持ちが私たちの修煉に妨害の作用を果たさなければ、この感覚自体は正常だと思います。もしこの感情や気持ちが私たちをコントロールし、その中に浸ってしまうと必ず問題が出て来ます。
私たちは「真・善・忍」を修めているので、すべての現れが素晴らしいはずだと思います。ある感情や状態が現れたら、「真・善・忍」の基準で量れば、それが正しいかどうかを知る事ができます。正しくなければ、それは取り除くべきです。このようなものを取り除く時、自分の空間場の外から自分の空間場に押し付けてきたものだと感じました。空間場に押し付けられた原因は、自分にこの良くない物と連携する執着心や良くない考えがあるからです。このような感情を排除したければ、まず自分自身の執着心と良くない考えを先に取り除かなければなりません。このような感情や状態は私たちの執着心や観念と関連があるのです。
実は、もし私たちが、怒り、悲しみ、恐怖、嫌悪感、罪悪感、落ち込み、プライド、興奮、刺激などの気持ちを強く感じた場合、その気持ちをすべて取り除き、淡泊にすべきです。もし、このような気持ちが私たちを支配しているのならば、私たちは真剣に対処しなければなりません。恐らく別の空間に邪悪な要素があるのです。別の空間からの妨害を排除し、自分自身の執着心を取り除き自分を正せば、師が法を正すことをより良く手伝うことが出来るようになり、衆生を救い済度することができるのです。
結論
私たちは宇宙の大法を修めています。私たちには最も偉大な師父がおられます。師父は「わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」[4]と説かれました。私たちはまだ何か心配することがありますか? 私たちの後ろに師父がおられ、大法があり、私たちが自分の考えや心を正しさえすれば、私たちを動かす事のできる人がいますか? 逆に言えば、私たちが魔難に遭遇する原因は私たち自身に必ず良くない物があるからです。
今年の神韻のある演目について話したいと思います。その演目には一人の将軍は戦うことに飽きて、修煉することを決め、道家に入って修煉を始めました。その道家の師父にはすでに多くの弟子がいて、その将軍が最後の弟子になりました。最後に、その道家の師父は弟子を試すために、自分が断崖から飛び込みました。他の弟子は慌ててどうしたらよいかわからなくなり、その将軍だけが師父に従って断崖から飛び込みました。その道家の師父はその将軍を連れて一緒に天上に上りました。すべての弟子の中で、一番最後に入門した将軍だけが円満成就しました。
この演目について、神々と人間のことを考え、感慨無量でした。もし私たちが自主的に自分自身の思惟(考え)をチェックしなければ、大事な時期に間違って選択してもまだわからなければ、万古の機縁を失い、残るのは無限の後悔なのです。
これは私の今の次元での認識です。不適切なところがあれば、ぜひ慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「再認識」
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法を学ぶ」
[4] 李洪志師父の著作:『轉法輪』