法理と人間の情
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明慧日本2001年7月10日】「人類社会は、修煉には素晴らしい場所なのです。それというのも、この中の一切のものがみな、人間の執着になりうるからです。ここから抜け出し、人類社会に対する一切の執着を取り除いてこそ、初めて偉大であって、初めて圓満成就できるのです」と師父はおっしゃいました。(「非政治」)

 あることが法を正すことに肯定的な意義を持っていても、このことを実行する人がその過程で行った具体的な行動の方向性が全て正しいとは限りません。法を正すことと、法を正す何らかの力になりたい人とではまったく違う概念であり、これは自明の理です。

 法を正し、修煉する大法弟子として、わたし達が行った全てのことは歴史として記録に留められるので、後人の参考となるかもしれません。ですから、歩む一歩一歩の全てに、大法に基づいて冷静に正誤を判断できるかどうかという問題が存在します。これは自分に責任を持ち、法に責任を持つことができるかどうかという重大な問題に関わっています。「法を師と為す」ことによって、個人の観念、人間の情、世間体といったものを捨てて、はじめて正確で慈悲深い判断ができるようになります。

 わたし達が今行っている法を正すということは、全て今まで誰も経験したことのないことであり、みな相当難しいことです。だからこそ、しっかりと正しく行うことは極めて貴重なこととなり、それによって自分を圓満成就させ、大法の威徳を樹立することができます。「経験したことがない」という言葉が、法に基づいてことを行わず過ちを犯したときの言い訳とならないようにして下さい。それは修煉者が法理によって造成され、試練を受け、成長していくことの前提と機縁になるものなのです。

 あらゆる法を正すための仕事はみな重要です。なぜなら、全ての仕事は法を正すこと全体においてそれなりの役割があるからです。しかし、個人の立場と認識により原則を喪失させ、ある仕事の重要性を必要以上に強調すると、かえって全体を撹乱することになりかねません。このような教訓は既に多くあり、しかも非常に深いものです。教訓は経験になるべきであり、今後わたし達がよく行い得るための新たな出発点となるべきです。誰それが言った話はただの参考事例に過ぎず、なんといってもそれは法ではありません。

 法理は非常に厳粛なもので、修煉は非常に厳粛なことです。世間の人情と法を正す仕事を決して混同しないようにして下さい。法理に関わる是か非かの重要な分岐点に立つとき、常に自分の神の一面をもって自分の人間の一面を主導することができるかどうかは、法を正すことにおいても、修煉においても極めて重要なことです。一方、人間の情(面子のため、世間体のため、非難されたため、その人が嫌だから中断するなどの人間の情)は、わたし達の神の一面が主導権を握ることを阻害している粗い顆粒物質です。

 一つの大法粒子として、法に責任を持ち、学習者に責任を持ち、社会に責任を持ち、自分に責任を持つというを常に心掛けていなければなりません。法理の見地より物事を考えるべきです。この要求は法を正すことの、現在における進展状況をみると、決して無理な要求ではありません。

 「わたし達は大法弟子として圓満成就に向かう最後の道のりを歩んでいます。自分の道を正しく歩むことも法を証明することの一側面です」

                          明慧編集部

                         2001年7月9日

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2001/7/10/13159.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2001/7/11/12154.html)
 
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