大紀元の仕事の中で無条件に内に向けて探すことを覚えた
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文/ドイツの大法弟子

 【明慧日本2020年10月7日】私は2004年4月から大紀元で働き始めました。初めは文章編集の仕事をしました。私にとって、とても楽な仕事です。なぜかというと、生まれつき楷書の文字、古文、漢詩の知識が備わっており、簡体字、現代中国語の文法について、学生時代に厳格な訓練を受けたことがあるからです。

 間もなく、上司と同僚達に能力を認められ、褒められました。褒め言葉を多く聞いたら好い気になり、自惚れていましたが、自分はまだ気づいていません。ある日、女性の同僚と文法について言い争い、彼女が使った文法に語弊があると指摘したのですが、彼女は「間違ってはいない。あなたの言った通りに変えると本来の意味が変わってしまう」と主張します。結局、お互いに説得できず、私はプンプンと腹を立てて学法に行きました。

 ちょうどその日「長春法輪大法輔導員のための説法」を学んだ中で、ある弟子が師父に「宇宙の中に全く同じものはありますか?」と尋ねると、師父は「二種の同じものは存在するかもしれませんが、極めて極めて少なく、私はまだ見たことがありません」[1]と答えられました。私は感動して、師父でさえ見られたことがなければ、そのものはつまり存在しないということでしょう。しかし、師父が答えられたのは「存在していない」ではなく、「見たことがありません」でした。

 師父は全て明察されておられますが、このように謙虚に答えられたのです。すぐに私は自分の傲慢さと焦りに気づきました。それは、私の中国語に関する知識は海のように深く、ほんの少し分かっているだけなのに、すぐに自分の考えに固執し始めました。心を静めて同僚の書いた文章を推敲すると、やはり(以外にも)、彼女の書き方は一般的ではないが、間違ってはいないことが分かりました。そこで、彼女の原文をそのまま採用しました。

 いつも謙虚さを忘れ、特に専門知識が必要な分野で過剰な自信を持つと、誤った判断をしやすいと私は自分を戒めました。

 2005年の初め、大紀元本部からWebサイト編集の仕事を引き受けました。Webサイトは24時間運営で仕事量が多過ぎて、当時、人手は少なく、私たちは年間を通して1日も休まず、パソコンの前で8~9時間座り続けて仕事をすることは日常茶飯事でした。日常生活のリズムの全てが乱れて、だんだんと学法、煉功発正念を疎かにしていました。

 警鐘は、発正念のことから鳴らされました。編集の仕事には時間厳守の要求があるため、私はよくこれを口実にして、1日四回の発正念をさぼりました。しかし、その15分間の発正念の時間を使って行った仕事は、もう一度やり直さなければいけない結末になっていたことに、やっと気づきました。原因は、時には編集用のサポートツールが故障し、時にはネットが切断されて保存できませんでした。当時、私たちのサポートツールにまだ自動保存の機能はなく、つまり、いったん問題が起こると、一からやり直さなければなりません。私はがっかりしましたが、ただの偶然にしか思いませんでした。

 ある日、発正念のアラームが鳴りましたが、私はアラームを消して仕事を続けていると、突然パソコンのスクリーンが真っ黒になり、電源が切れてしまったのです。これで編集中の文章だけではなく、ネットに繋いでいない保存ファイルの内容まで全部消えてしまいました。

 私は驚きの中で、しっかり自分を修めなければならないとやっと認識しました。そこで、師父の経文をめくると、ちょうど『精進要旨二』の「円満成就に向かって」でした。師父は「今になってもまだ、一心不乱に本を読むことのできない人がいます。特に大法の仕事をしている人は、いかなる口実をもってしても本を読まず、法を学んでいないことを隠してはならず、師父であるわたし個人のために何かをするにしても、日々、心を静めて法を学び、着実に修めるべきです。皆さんが本を読んでいるときにあれこれと考えをめぐらしていると、本の中にいる無数の佛、道、神は、あなたの可笑しくて、そして哀れな考えを見ており、思想の中の業力があなたを制御しているのに、あなたがまだ迷って悟らないのを見ているのです。仕事をしている一部の人は、長きにわたって本を読まず、法を学んでいませんが、それではどのようにして大法の仕事を正しくこなすことができるのでしょうか? 無意識のうちに皆さんは多くの取り返しのつかない損失をもたらしてしまいました。教訓は皆さんをさらに成熟させるはずです。旧い邪悪な勢力に皆さんの考えの隙に乗じられないようにする唯一の方法は、しっかりと法を学ぶことです」[2]と説かれました。

 私は生活のリズムを調整し、毎朝パソコンの仕事を始める前に学法と煉功を済ませ、二度と四回の発正念をさぼるようなことはありません。それ以来、パソコンは一度も故障したことがありません。そのように暫く続けていくと、仕事の能率が明らかに上がり、仕事の量は相変わらず多いのですが、頭はすっきりして反応が早く、何をやっても半分の労力で倍の成果をあげられたのです。

 2007年9月、私は総務部に移って、同修Aさんと一緒に仕事をしなければなりません。Aさんと私は、仕事のやり方が全く違い、考え方も正反対のこともあります。Aさんが重要だと思うことは、私は重要ではないと思い、私が重視していることを、Aさんは重要だとは思いません。できるだけAさんのペースに合わせて仕事を消化していますが、心の中ではよく辛い思いをして、不満に感じることがあります。そして、それは私の心の中に鬱積し、次第に心のしこりになってきました。

  ある日、『スイス法会での説法』を学んでいると、師父は「私は最大限に私の全てを放棄できるので、この一切を解決できるのです」[3]と説かれました。私は突然気づきました。今までの自分の考え方と観念に固執しすぎて、Aさんのことが気に入らないのは、自分の観念に照らして、自分とは違う部分を見て、彼女が悪いと評価しているからだと悟りました。

 自分の評価基準を以てAさんと私との違いや、Aさんの特徴を排斥しなくなってから、私はAさんの欠点だと思っていた部分は、私の不足を補っていてくれていたことに気づきました。

 例えば、仕事の中で困難に出遭うと私は後退し、Aさんは勇敢に突き進みます。Aさんの目には目標しかなく、どんなに大変でも必ず目標を達成させます。昔の私は、Aさんの強硬な性格に悩まされて、一緒に仕事をするときプレッシャーを感じていました。仕事の達成よりも自分の気持ちを大切にし過ぎて、諦めていたところもあったのかもしれません。観念を変えた後、仕事の能率が高くなり、多くの成果を収めました。

 仕事が順調に進み、部署の人数も次第に多くなり、人数が増えれば作業工程も複雑化しました。新しいメンバーは新しい考え方と仕事の習慣を持ち込み、個性が強くなり、一瞬にして自我を放下し、協力することも難しいので、お互いに摩擦がだんだん生じてきました。

 師父は「ですから、いざこざが起こった時に、各自は内に向けて自分の原因を探さなければなりません。このことはあなたに責任があるかどうかに関わりません。私の言った話をしっかり覚えてください。あなたに責任があるかどうかに関わらず、あなたは自分を探してください。必ず問題が見つかります。もし、このことがあなたと絶対に関係なく、あなたが取り除くべき心を持っていなければ、このことがあなたの周囲に発生することはめったにありません。もし、あなたがこの心を持っていなければ、トラブルを引き起こすことはありません。あなたの修煉に責任を負わなければなりません。トラブルがあなたの身に、あなたの周辺、あなた達の間に現れれば、恐らくあなたと関係があり、あなたに取り除くべきものがあるはずです」[4]と説かれました。

 そこで部署にあまり良くない雰囲気が漂う時、私は心を静めて自分を探しました。総務部は皆さんをサポートする部署で、私たちが仕事をしっかり行ってこそ、はじめて第一線で活躍する同修たちに援助できます。現在の状況を見て、私にはもっと自我を放下する必要があると思いました。そこで、私は部署のメンバー各々の考え方と仕事の習慣を把握して、最大限にそれに合わせて仕事上のサポートを始めました。次第に私の払った努力は皆さんに理解されるようになりました。

 2015年8月、私はまた部署が変わり、仕事内容と環境は大きく変わりました。とても優れていたチーム環境から、プロとしてまだ多くの不足が存在するチームに入って、最初、私はとても慣れなくて落ち着かず、不満が募りました。

 私は師父の言葉、「問題が現れたならば、責任を追及するのではなく、自分がどのように行なったかを見るべきです」[5]を思い出しました。自分が置かれている環境に問題があると思う時、不平不満をこぼす時間があれば、環境を変えるための方法を考えたほうが余程良いと思いました。置かれている環境から何が得られるのかを期待するのではなく、その環境を良くするために努力を払うべきだと思いました。

 新しい部署に入って間もなくトラブルが発生し、責任は私にある訳ではありませんが、上司は私を責めました。その時私はとても腹が立ち、以前の私なら、事が起きたら白黒をつけなければ気が済まず、自分に落ち度があれば必ず責任を取ると言っていました。しかしその日、冷静になった時自分にはあるはずのない二つの執着心が見つかりました。一つは「闘争心」で、無実の罪を負わされる時、絶対自分の潔白を証明したいという考え方は、とても強い闘争心であると改めて気づきました。もう一つは「忍」を守れなくて、無実の罪を受けたくはなく、忍耐することができなかったことです。

 新しい部署の部長は、私に管理職の仕事をやってほしいのですが、私は管理職の仕事が好きではありませんし、長い間、背後で黙々とみんなに協力することに慣れていた私は、リーダーになりたくありません。現状に気楽で飽きっぽいのは生まれつきの性格で、和らいだ気持ちであまり欲望や欲求がなく、昔からこの考え方が心地良いのです。しかし、部長から絶えず管理職の仕事をさせられているので、暫くの間、私の心はとても辛く不満でした。

 このことを同修Bさんと交流すると、それはあなたの安逸心だと指摘されました。私は思わずそうだと思いましたが、言葉はそれと違って、「好きでもない仕事に付くと、きっと良い成果も収められないから、最初からやらないほうが良いと思う」と弁解しました。Bさんは「やってもいないのに、どうしてできないと言えるのですか? 現状に甘んじて大志がない状態が、なぜ正しい状態だと言えるのだろうか? 一生懸命に衆生を救い済度しなければならない今、私たちは現状に甘んじて良いのだろうか。どれほど多くの命が私たちの救いを待ち望んでいるのか、大志を持たないで、どうして神聖な使命を果たすことができるのだろうか?」と話しました。

 彼女の問いに私は返答できませんでした。自分の本当の考え方を掘り下げると、安逸を求めて、責任の重い仕事を引き受けたくない気持ちが確かにありました。管理職の仕事をすると、大量な複雑な問題を処理しなければならず、今より多くの時間と労力を払わなければなりません。しかし、修煉者は常人ではなく逆に苦労をして、大紀元新聞社をもっと良いメディアにさせることができれば、その苦労もそれなりの価値があるのではありませんか。大法弟子として、これこそ生命の意義ではありませんか。またどうして労力と時間を惜しんで、全力を尽くすことを躊躇するのでしょうか?

 たくさんの事を経験して、修煉者が出会ったすべての問題は、最後に必ず自身にその解答が見つかることができると、私は悟りました。師父は「修煉者として、常人の中で遭遇した一切の苦悩は、みな関を乗り越えることであり、遭遇した一切の褒めたたえは、みな試練なのです。」[6]と諭されました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『法輪大法義解』「長春法輪大法輔導員のための説法」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「円満成就に向かって」
 [3] 李洪志師父の経文:『スイス法会での説法』
 [4] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会での説法』
 [5] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「糾正」
 [6] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修める者はおのずとその中にいる」

(2018年に新唐人と大紀元交流会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/11/15/377061.html)
 
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