「自我」への執着を理性的に認識する
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文/マレーシアの中国大法弟子 

 【明慧日本2020年10月19日】大法弟子は、「自我」への執着を取り除くことについて、よく話しています。プロジェクトの中でも「自我を放下して一体となり、うまく協力し合う」などの話もよく話しています。「自我」は修煉のあらゆる面に現れています。最後になると、「自我」は最も乗り越えられない障害物になるようなので、私は現在の次元の認識を通して、「自我」について交流したいと思います。不足があれば、ぜひご指摘をお願いいたします。

 「自我」の構造

 ここで話している「自我」とは、後天で形成した観念や、執着、また業力で構成した「私」であり、つまり後天の「私」(或いは「偽私」、法の中で指している「真の自我」[1]ではありません)。別な角度から見ると、「自我」(偽私)は情という物質で構成された生命体です。

 多くの場合、人はこの「自我」のため生きていて、「自我」に振り回されています。法に照らし合わせれば、「自我」とは「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」[2]と説いています。「自我」は修煉者の魔性なので、取り除くべきです。修煉の初めの頃、この「自我」はとても強く、もし師父が私たちから多くを取り除いてくだされなければ、普通の常人なら、徹底的に「自我」に勝つことは非常に難しいのです。

 「自我」の成長 

 「自我」は「情」の中で芽生え、成長していきます。「自我」については、私たちの体に密着してなかなか離れず、また自分を守る意識が強くて触れることができない、他人を許容しないというのが特徴です。「自我」は利己的であり、法の原則である「真・善・忍」に反する、最も乗り越え難いものです。「自我」は他人を寛容せず、それは「善」(良いこと)ではなく、最後に「真」(真実)にも合わなくなります。何かあったら「自我」に従わないと、自分を抑制できなくなり、爆発することになります。

 実際には、修煉の中で注意しないと「自我」は強化され、拡大され続けるでしょう。そして、「自我」自身にもっと強い「自分を守る」意志が現れて、さらに触れることができなくなります。

 「自我」は、不安や他人に傷つけられることへの恐れ、名利情を失うことへの恐れがある場合、それはまた、それを持っている人々に対応する恐怖を引き起こします。

 師父は、「恐れる心があるかどうかは、修煉者が常人なのか、神なのかを判断するときの基準であり、修煉者と常人との違いもここに現れています。これは修煉者が避けて通れない心であり、修煉者が取り除かなければならない最大の人心でもあります」[3]と説かれました。

 私は、「自我の恐れる心を制御する時、大量の『自我』が消去されます。ですから、恐れる心は修煉者として、もっとも取り除き難く、もっとも取り除くべき最大の人心です。

 常人の社会で能力がある人ほど、家庭で自分の考えを強調すればするほど、この「自我」は強められます。家族の中で最終の決定者は、往々にして「自我」の心が強いのです。それは、達成感がある人なら多くのことが自分の思い通りになり、自分に転化してきた業力へと変わり、「情」という物質がその人を強めてしまいます。しかも「情」の本質は、自らのためであり、わがままなところにあるのです。

 「自我」は自分の意志を否定されるとか、逆らうなどを許すことができません。一旦許したら、「自我」自身は排除され、「自我」の生命に関わるので、「自我」は必ず抵抗して自分を守ります。時々、その抵抗はとても激しく、その激しさはまさに、自分の肉体の生命を失っても構わない程にまでおよぶ可能性があります。「自我」に触れる時、人間の表面では、嫌がること、怒ることで「自我」自身にとって、消滅されることに直面するのです。人心が満足する度に「自我」は強められ、時間が経つにつれて、「自我」自身はとても強くなりました。師父は、この学習者が「自我」を取り除くべき時期になった時、この執着心を暴露します。

 「自我」はとてもずる賢くて、自分の中にある他の執着心を利用して、また別な執着心を隠します。もし、大きい執着心を見つけたら、小さな執着心は盾となり、大きい執着心の身代わりとして差し出します。つまり、自分を守るために尻尾を切り、小さな業力の犠牲と引き換えにするのです。

 修煉中での「自我」の現われ

 「自我」はまた、多方面にわたって執着心の表現を通して、絶えず自分を強めます。そして、顕示心、歓喜心、嫉妬心、闘争心などなど、ほぼすべての執着は「自我」がある成長期になるまでエネルギーを補充します。元神の正気の強さが「自我」の強さより弱い時、「自我」は自分を隠さず元神の制御から脱出して、猛スピードで自分を強化し、自分を成長させます。この時、修煉者は自分でトラブルを招き、難関に出会います。そして、関を乗り越える時、修煉者は「自我」に気づいて、「自我」に抵抗すれば、「自我」を消滅することができます。

 「自我」の中には、業力、思想業、病業などがあります。業力は毒と同じように、いつの間にか人に害を与えます。「自我」を取り除くため、師父は「自我」を突如、関として現わします。一旦「自我」が現れると、修煉者としては、「自我」を徹底的に消滅させなければなりません。このため「自我」も徹底的に抵抗し、その修煉者に病業などを押し出し、またあらゆる種類の執着も押し出して、修煉者を困らせて、「自我」を消滅する暇がなくなるようにします。もしこの時、修煉者はそれらの執着心に従って、病院へ行き、常人の方法で治療すれば、ちょうど「自我」の手段に乗って、法への正しい信念にマイナスの影響を与えます。

 業力で構成した「自我」、あるいは「偽私」は死に対してとても怖がっていますが、真の元神なら死を怖がらないのです。「自我」は他人の虚偽的な、空虚な認識からエネルギーを得られます。例えば、ある人は、他人の称賛をえるため、認めるため、または利益のためなどの表面上だけのことをしっかり行って、他人が褒める中から「自我」が大きな満足を得て、そして強化されました。

 またプロジェクトや団体の中で、能力があればあるほど、「自我」を生成しやすいのです。この点については、明慧ネット上に多くの交流文章があるので、ここでは説明しません。

 「自我」はまた、数人のグループを形成したいのです。なぜなら、「自我」にとってこの団体の中に「安全」があります。各小さい団体は互いに排除し合い、互いに気に入らず、誰が良くて、誰が悪いのかを、小さい団体を通して自分の執着心を隠しています。この小さい団体の人々の執着により、大法弟子と別空間の各団体との間に間隔を作り上げました。

 「自我」の中には、安逸心も含みます。「自我」によって、人は無意識に苦難を避けます。しかし、宇宙の法理は、人間の次元に対して「苦をなめて、業力を返す」と要求しています。「自我」はちょうど逆です。「安逸心」に気づくことが難しく、すでに自然体になり、自分の習慣になることです。しかし、「安逸心」は修煉の中で、知らず知らずのうちに私たちの意志を減らしていき、絶えず業力を溜めて「自我」を強化しています。

 「自我」は、私たちの表面上の善も減らしています。大法の修煉は非常に速いので、修煉によってできた部分はすぐ隔離され、人間の表面上の善がずっと「自我」に影響されています。しかし、「自我」が弱ければ弱いほど、私たちはより善を現しています。逆に、「自我」が強ければ強いほど、私たちが現した「善」も少ないのです。

 今、海外の同修の間では交流が少なく、集団学法をしても、あまり交流をしないのです。自分のプライバシーが暴露されることを心配する人もいれば、他人に指摘されることを許さない、あるいは触れられることを許さない人もいます。これによって、多くの人は長い間、ただ学法をするだけで、学法が終わったらすぐ離れ、体裁よく形だけの交流を行っていて、これでは互いに向上を促進し合う作用が果たせません。時間の経過とともに交流する人が徐々に少なくなり、全体を形成するのが難しくなります。

 同修の間に間隔を形成した多くの原因は、「自我」の自己を守る心です。もちろん、他の原因もあります。

 いずれにしても、同修の間に間隔が一旦形成されたら、集団学法や集団煉功に参加する人が少なくなり、修煉環境も良くない方向へ変わります。したがって、私たちは極度な自分を守る心と恐れる心を放下すべきであり、正念を正しく持って行動し、私たちの全体の修煉環境を整えていくべきだと思います。

 「自我」が満足できない時、その「自我」は気が弱くなり、落ち込みます。例えば、法を正す時間に執着する場合、自分の予想通りになっていないから落ち込むとか、責任者に不満があるから落ち込むとか、自分の意見が認められないから落ち込むとか、真相を伝えるとき効果が出ないから落ち込むなど人心が満足できない時、ガッカリして、やる気がなくなります。これは「自我」が強すぎて、満足できないことの現われです

 「自我」は触れられた時、「衝動」や「理性的ではない」という形で表現し、私たちの修煉や法を実証することに良くない影響を与えて、私たちに余計な代価を払わせました。師父は、私たちに法への認識について、感性的認識から理性的認識へと昇華して、最後に理性的に物事を行うように要求されました。私は個人の理解として、「理性的に行う」ということが最小の代価で、できる限り最善を尽くすということです。「自我」が強い時、修煉者の正念が不足し、理性的ではなく、旧勢力の隙に簡単に突き入られ、法を実証することに多くの損失をもたらせます。

 修煉が最後になると、小さいことでもしっかり修める必要があります。一思一念の執着をしっかり掴んで取り除き、さらに、これらの「小さいこと」は大きな人心を反映しているかもしれません。

 特に現在、一部の同修はすべての人心が党文化の現れであると言いましたが、実は、海外の同修にも同じような執着心があり、すべて党文化によって生成したとは言えません。

「自我」を取り除く

 「自我」を放下することについて、自分の名利情から着手し、深く内に向けて探し、さらにまた深い所に隠されている執着心は何なのかを追求します。もう一方、トラブルがあった時、相手の立場に立って問題を考えることです。

 親しい人と自分の前では、「自我」は強くなります。そのため、親しい人に対しても「互いに相手を尊重し合い」、友達に接するように対処すべきです。多くの場合、私たちは友達には寛容ですが、親しい人には逆に強く「自我」を現し、厳しく要求します。

 「自我」を放下するとは、自分を低い所に置き、これ以上低くならない最低の所に自分を置くということです。一番低い所は一番硬いしっかりとした所であり、それは硬い大地を踏むようなものであり、一番安全な所です。しかし、私たちは安心を求めるために、自分を低い所に置くのではありません。

 一番低い所はとても謙虚ですが、確固としていて、勇猛で、最も万物を包容することができる生命です。最も低い所から見えるものはすべて光りですが、高い所で見えるものはすべて暗い闇ばかりです。そして、一層一層の天体の中には、神の上に神がおり、各生命は自分のいる所で、楽しんで暮らしています。生命の境界は異なりますが、それぞれ自分がいる所の幸福感と満足感があります。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『シドニー法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨(三)』「法を良く勉強していれば、人心を取り除くことは難しくない」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/9/28/393890.html)
 
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