若い学習者がもう一度修煉に戻る
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2020年11月26日】私は、生まれてすぐに大法を得た子供弟子でしたが、成長の過程で親は次第に傍にいなくなるため、少しづつ修煉を忘れていきました。しかし、3年前からもう一度修煉を始めることにしました。振り返ってみると、2、3年前の自分の状態や状況はひどいものでした。子供の頃の修煉の基礎はありますが、法に対しては、ほとんど感性だけの認識だったため、学法をする際にはいろいろな妨害がありました。

 また、様々なものに誘惑されて、精力が分散されてしまい、安心して学法をすることができませんでした。その頃は、理性で法を認識することができず、たくさんの障害もあり、惰性もありました。精進を暫くしたら、その後なんとなく怠けてしまう、そんな感じでこの2年の間何度も繰り返し、自分の無力を感じてしまい、崖っぷちの状態に陥ってしまいました。

 今年の冬休み、実習のために早起きをする必要がありました。しかし早起きは、私にとって成長過程の中でも一番悩まされていることでした。初めのうちはなかなか大変でしたが、家族の協力で何とか起きていました。その後、少しづつ起きれるようになり、長年悩まされていたことがやっと克服できたのです。これを機に、毎日早起きをするようになり、出かけたり、家でだらけたりしなくなりました。

 段々と修煉にも精進し始めました。そして学法して悟ったことは、修煉に休みはなく、少しでも、自分を楽にしようとする人心(安逸心)を持ってはいけないということです。

 一、法理に基づき、問題を考える   

 「いかに精進できるのか」、「難に遭遇した時、どう乗り越えるのか」をいつも考えていました。ある晩、一人で部屋にいた時、学法を終えた後で発正念をしたら、すぐ寝ようと考えていました。両脚を組んだあと、一種の「恐怖」の感覚が心の底から湧き上がってきました。私は小さいときから恐怖心が強くて、一人で暗いところに居られないばかりか、テレビ番組でホラー映画などを見たりしたら、それこそ何日も寝つきが悪くなっていました。

 そのため恐怖感がどんどん増してきて、私はすぐにでも人が居る部屋に行きたくなりました。でも、考えてみたら発正念で邪悪を取り除くことが出来る人間が、どうしてそれらを怖がるのでしょうか? そう思うと、人が居る部屋に行くことを止めました。心の中で、「怖がらずに、ここに居ても、私は法を得ています」と、このように思うと気が強くなりました。その瞬間、心が動じることは無く、怖い感覚も無くなりました。これをきっかけに、私ははっきりと認識しました。問題と向き合うとき、人心を守るのか、それとも法に基づくのか、それによって自ずと結果が違ってきます。

 そのためどんなに難しいと思うことでも、執着と観念を固く守ろうとする一面を、自分と見做さないのです。よく修め、法の基準に符合した一面であって、それが本当の自分なのです。さらに、自分の良くない思想と観念のすべてを忘れて、自分が大法の一部であると思うべきです。そのようにすれば、手放せない物(執着心)が維持できなくなります。

 夜中はネットへのアクセスが難しく、ネットを突破するのも難しそうでした。以前は、もしそうなったらオンラインをやめるか、あるいはずっと待つか、それとも何回も再接続を試みたりして、簡単ではありませんでした。ある時、メールでメッセージを見ようとネットに繋いでみましたが、最初から開かず、何回試みても無理でした。私は「今日は必ず見る」と自分に言い聞かせてから、ネットをブロックした要素を取り除こうと発正念をしました。すると、何秒後かに一個目のホームページが開き、二個目、三個目に繋がっていきました。今までは、こういう状況になると発正念を思い出し、行なっていましたが、内心では正念が弱く、その効果はまだ半信半疑でした。しかし今では、発正念の状態が以前よりずっと良くなり、自分の不正な要素をすべて打破することが出来ると信じています。

 第一の最大の変化は、以前より学法の状態が良くなったということです。以前は、自分の観念を持ちながら学法をしており、ただ普通の本を読んでいる感じでした。理性で法を認識するためには、本に書かれた道理をよく学ぶことです。この「理性」を、一般の人たちが物理を勉強するときの一種の理性と認識してしまいました。後に悟ったことは、自分が認識した「理性」も人間の観念ということで、真の修煉者の「理性」は常人のあらゆる観念を持っていません。些細な概念や執着は、私に法の真意を見ることを妨げるだと分かりました。このことを理解してから、自分の一切の観念と思想を忘れさせてから学法をするようにしました。このやり方で学法すれば、より多く理解する事ができるようになりました。それからは一段落の学法でも、たくさんの法理が分かるようになりました。

 第ニの変化は、以前は何も理解しないまま法を学んでいるのではないかと、いつも法から何かの法理を見つけたいと思っていました。よく分からない法の一節を、何度も何度も読んでみても、結果的には何も見えなかったり、理解できたりのいずれかでした。 師父が何度も繰り返して読むように仰っていたにもかかわらず、あの時はまだ、その考え方を放下できませんでした。師父の海外での説法を学ぶ時、白人と中国人との思想の違いを説いてくださいました。 白人の思考は比較的に単純だが、中国人は経験と複雑な思考のため、理解するためには常に多くの説明が必要でした。 そこで、ふと思ったのですが、法を勉強するときは人間の観念ばかりで、それが邪魔になってしまうこともあるので、あまり考えすぎるのは、良くないのではないかと思いました。

 第三は、大法に対する態度です。同修の中には、法を学びたくても字が読めずに不安を抱えている人もいますが、法を学ぼうとする心はとても純粋で、本を開いてみると、本に書かれている言葉をすべて読めることに気がつきます。これは純粋な心で大法を学ぶべきだと理解しました。

 二、着実に修煉し、大学院への執着をなくす

 昨年、私は大学院を受験しました。 受験準備をしている期間は、とてもストレスが溜まっていました。 その頃は、主に学法不足で修煉が不安定な状態が続いていました。 今は就職難と自分の未熟さから、まだ社会で働きたくないと思っていました。 だから、当時は大学院への受験を自分の唯一の出口だと考えていました。 しかし、競争が激しく、受験した科目が難しかったので、毎日あまり多く勉強ができずに日にちが過ぎていきました。 毎日大きなプレッシャーがあり、受験というプレッシャーに加えて、精神的な打撃もありました。 ほとんど毎日泣いていたり、またはひどく落ち込んでいました。 

 もうそれ以上に耐えられなくなり、受からないと思って諦めました。それから毎朝起きて学法をして、学法するときは、気持ちがとても楽になっていました。 午後からいつもの勉強をして、もう受験のことは考えていませんでしたが、知識そのものに興味を持ちました。 夜は同修と交流をして、寝る前に煉功をしました。この状態が1カ月近く続きました。 その頃、クラスメイトたちは毎日熱心に勉強していました。 今思えば、当時の学法の状態は普通でしたが、当時の私にとっては大きな進歩でした。

 ある日、昼間に学法していた時、かなり理解が深まったように感じ、頭の中がスッキリとしていて、全体が開けたような気がしました。 夜、煉功していた時には、脚の痛みは全く感じませんでした。 いつもは30分ほど座禅していると脚がしびれて落ち着かなくなっていましたが、その日は何も感じませんでした。一気に1時間以上座禅をしていましたが、普段と違った状態もありました。それは 自分が上達した証だと分かりました。

 試験が近づいてきてまた緊張し始めましたが、だいぶ状態が良くなってきました。 もしかしたら人生最後の試験なのかもしれないと思い、将来後悔しないように、真剣に受け止めなければならないと思いました。そして、最終的な復習計画を練り、内容がかなり密度の濃いものに修正してみました。 筆記試験は、本当に内なる自信に満ちており、神の助けのように感じていました。 私はその後の2次試験ではとてもよく出来ました。さらに今年は定員数の増加もあり、合格した上に成績がとても良かったのです。 慈愛に満ちた心遣いと、悟らせてくださった師父に感謝を申し上げます。また、助けてもらった同修にも感謝しています。

 最近は毎日、目覚めたように上達しているような気がします。 大学院への執着を放下したからかもしれません。 最初は何となく学校に行きたくないという、自分の惰性で新しい環境に行きたくないという要素もありました。 また疫病の流行があって心の負担になっていたのかもしれませんし、大学院の勉強も意味がないとも感じていました。 その後、法を学ぶ中で、また同修との交流の中で、私は師父の「最大限に常人に符合して修煉すべきです」[1]と説かれたもうひとつの意味を理解しました。 以前は、常人から異常だと思われないようにするためだとしか思っていませんでした。 後で理解したのは、常人の社会は私たちの修煉の場であり、常人の形に適合することは仕方のないことではなく、まさにそうすることが必要なのです。そうでなければ向上の機会もなく、着実に修煉することとは言えないのです。 そのため、日中に周りの人が何かをしているときには、私は積極的に参加します。 以前は時間がもったいないと思っていましたが、今は自分を高める機会だと捉えています。

 今、私は法への認識がまだまだ浅く、まだ学んでない説法がたくさんあります。 師父は、私たち一人一人の弟子をとても早く、高く向上させてくださったので、しっかり精進をすればそれを感じることができます。 時間への執着、後悔、成し遂げられない気持ち、自分の上達を喜ぶなどの余計な考えを放下する必要があり、どうすれば精進できるのか、どうすればもっと精進できるのかを考えるべきだと思います。

 注:
 [1] 李洪志师父の経文:『米国西部法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2020/10/2/411992.html)
 
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