文/山東の大法弟子
【明慧日本2021年1月3日】私は1998年に法輪大法の修煉を始めました。 私が修煉し始めたばかりの時、『轉法輪』を繰り返し読み、かなり衝撃を受けました。師父は次のようにおっしゃいました。「そんな人はいったんわれわれの法輪大法を学んだら、人生の中で知りたくても答えが得られなかったたくさんの問題がたちどころに分かるようになります。思想の昇華に伴って彼は非常に感激することになります。これは間違いのないところです」 [1]
私が修煉して数カ月経った頃、中国共産党(以下、中共)による法輪大法への迫害が始まりました。 壮大なプレッシャーの中、回り道をして戸惑ったこともありました。 しかし、慈悲なる師父は私を見捨てられず、返本帰真の道に戻ることを助けてくださいました。 ここ数年の私の修煉体験を話させてください。
師父は迫害を按排されない
私は2003年、労働教養所に不法に連行されました。 そこで、「悪」を見てきました。私は恐怖心が生じ、 悪に屈して、乗り越えられないと認め、さらに言い訳を見つけました。 師父は何度も何度も私を悟らせてくださり、やっと自分が間違ったことをしたことに気付きました、言い訳も理由もありません。
師父は夢の中で私を悟らせてくださいました。 夢の中で、壁に大きな隙間があり、外には自由の野原が広がっています。私は大きなトイレの中を歩いていました。 私は周りを見渡しましたが、外に出ず、トイレの中を歩き続けました。 目が覚めた時には、正念で脱出できたはずだったのに、私はできなかったと悟りました。私はすぐに立ち上がって、声明を書き、最も簡単な人の道理で大法の真相を警官に伝えました。当時、警官から嫌がらせを受けませんでした。
ある日、作業場で仕事をしていた私は、大法弟子の歌を歌って皆に聞いてほしいと思い、師父にお願いをしました。 1カ月後のある日、隊長が来て機嫌よさそうに、私に歌を歌うように言いました。私は大法弟子の歌を歌ってみんなに披露しました。(歌詞省略)
その後、隊長は私の歌の上げ足を取ろうとしましたが、私は「歌わせたのはあなたじゃないですか。歌ったら、気に入らないのもあなたですね」と言いました。すると、 彼女は何も言わなくなりました。同修たちは皆、私のために冷や汗をかきました。私は心の中で師父の按排で迫害はないとわかっていました。
労働教養所を出る2カ月前、急に緊張した雰囲気になりました。 労働教養所では洗脳教室が開催され、同修が相次いで入れられました。一部の意志が固い同修は別のチームに移送されて集中拘留されてしまいました。 恐怖が私を包み込み、いつでも引っ張り出されそうでした。「怖がってもどうしようもない」と思い、それ以上怖いと考えないようにしました。私は引き続き囚人服を着ていない時でも、警官が近づいて来ても、私は目を合わせませんでした。 怖がらないことも、邪悪な迫害を否定することだと感じました。
強気と魔性を無くす
労働教養所から帰ってきたとき、学法する時間が多くなりました。 同時に、私は正念を重視していました。大量の学法を重ねて、ここ数年の自分の迫害の理由が少しずつ理解でき、旧勢力の思惟が何かを少しずつ見分けられるようになりました。
それから数年は現地で協調する仕事を引き受け、人を救う道に没頭しました。自分の修煉状態がおかしいと気付いた時は、出かけるのをやめて、家で心を静めてたくさん法を勉強しました。 自分の修煉状態を振り返れば、長年協調の仕事の中で、自分の意見を主張したがり、傲慢さ、強気など、多くの人心を養ってしまいました。
また、法で悟ったやり方はこうであるべきだと思うとき、他の人が納得してくれなかったり、従わなければ、落ち着かなくなります。同修と交流するとき、意思の疎通がうまくいかないときは、自分の悟りを無理矢理同修に押しつけてしまい、結果的に意見が合わなくなってしまうのです。 そして、私自身、自分の原点は大法のために、全体のためにあると感じ、とても悔しい思いをしました。 一歩下がって心を放下したとき気がつきました。すべての大法弟子の道は、師父によって按排されているのです。 私は自分が悟ったことを他の人に押し付けているのは、師父の按排を妨害しているのではありませんか。
同修が邪悪要素に隙に乗じられて、うまくいかないのではないかと心配していますが、実は自分自身のネガティブ思考が働いているのです。 それに、起きたことが必ずしも悪いこととは限らず、そこから昇華すれば、悪いことを良いことに変えられ、フラットな道はかえって昇華されていないかもしれないと思うと、自分は法とかけ離れていたことを恥ずかしく思いました。
それ以来、私は法に沿って修めることを重視しています。 しかし、時間をかけて形成されたものは、短期間では無くすことはできません。 同修と切磋琢磨する中で、他人の言うことが法に相応しくないと感じた時、それでも自分の意見を言わずにはいられず、時には話せば話すほど、一人芝居になってしまいました。師父が言われていた「互いに交流したり、体験談を話したりしてもよいのです。このようにすることは望ましいことです」[1]とは違っていました。
同修はみな包容力があり、誰も私のことを責めませんでした。 主意識を強化して内にむけて探さなければならない思います。集団学法の時、私はいつも「難を乗り越えるときだ! 我慢しなければならない!」と自分に言い聞かせました。 時々、同修の話を聞いていると、以前は口を挟んでいましたが、今は黙っています。 その時、心の中の「偽りの自分」は今でも同修を助けるという口実で口を挟みたくなりますが、私はただただ「話さないように」と自分に言い聞かせています。 口をつぐんでいれば、自分は違う視点や考え方を持てるようになりました。
また、他人の欠点を見たときには、自分の内側に目を向けるようにしていました。 同修が他の同修を見下しているのを見て、イライラし始めました。 自分がイライラしていることに気づいたらまず黙って、イライラする心を抑えました。 その後、内に向けて探すと、「自分の修煉も出来ていないのに、同修を見下しているのか」と考えました。 同じような心を持っていたことが判明し、それは自分の問題でした。 今まで「同修を助ける」という名目で、自分を高める機会を多く逃していました。
もう一つは、同修に怒りをぶつけた時に、いけないと認識しても具体的な話になるとまた我慢できなくなってしまいます。ある時、同修と話し合っていた時に、同修の意見が私の恐怖感に触れ、自分のことを理解してもらえないと感じ、言ってはいけないことを言ってしまったことがあります。
その後私は、痔の疾患を発症し、どんどん大きくなっていきました。 内に向けて探してみると、恐怖心、わがまま、考え方が狭く、短気などの魔性をみつけ、同修に謝りました。それでも患部はどんどん大きくなり、痛みで眠れなくなってしまいました。 以前はこんなことは全くありませんでした。夫は「その気性を変えるべきだ」と言いました。 そう言われて私は憤りを感じていることに気づき、その考えをもみ消そうとして、無条件に内に向けて探すことを決意しました。
師父は「大法弟子は邪悪の前でも、殴られてもやり返さず、罵られても言い返さないのではありませんか? 忍んでいるのではありませんか? 落ち着いて真相を伝えているのではありませんか? それなら、なぜ意見が違うときに怒るのでしょうか? 修煉者はなぜ怒るのでしょうか? 修煉者の間はなおさら怒ってはいけないのではありませんか? あなたが誰であっても、修煉をしているのです。なぜ私の弟子にいつも怒っているのでしょうか? 私の弟子にこのようにして良いと私は同意したのでしょうか?」[2]とおっしゃいました。
師父の法と照らし合わせて私は恥ずかしくなりました。翌日、私がベッドで発正念をし、自分の体に向けて発正念しようとしましたが、これは報いであり、自分が修めていないから自業自得だと考え、やはり真相を伝えている同修のために発正念をしました。こうして、私が発正念をしていると、エネルギー場を強く感じ、体もあまり痛くなくなりました。50分後、発正念を終えると、痔も痛くなく、良くなりました。私は、きっと自分の考えが法に一致し、私心をなくしたために、この難を乗り越えられたのだと思いました。師父がこの難をなくしてくださいました。大法の奇跡です。
それ以来、何があっても怒ってはいけない、魔性を必ず修めると決心しました。その後、私を怒らせるような出来事に何度か遭遇しましたが、全てに耐え切ることができました。明らかに師父が私の怒りっぽい物質を多く取り除いてくださったと感じています。 やっと修煉者の穏やかな状態を取り戻しました。
他人を思いやる心
迫害が始まった当初、私は闘争心がとても強かったのです。 警官や会社の上司に迫害の実態を伝えるとき、いつも正義感が強く厳しい態度をとっていました。上司からは「劉胡蘭」に似ていると言われました。 迫害のプレッシャーと自分の修煉不足から、冷静に穏やかになることができませんでした。 ある時、警官に迫害の実態を伝えていると、彼は「良ければ自宅で行えば良い、資料を配ってはいけません。配ったら捕まえます」といいました。私は「逮捕する勇気があれば配る勇気がある」と言い返しそうになりましたが、それが間違っていることに気づき、思わずその言葉を飲み込みました。
家に帰って反省したのは、なぜその話をすると腹が立ったのかということです。当時のことを思い返してみると、迫害されている立場に身を置き、自分が不当に扱われていると感じていました。実際、本当に迫害されているのは私たちではなく、世の人々であり、彼らこそかわいそうなのです。自分を守りたいという利己的な私心と迫害の不平不満を抱いているのでは他人のためという正念は生まれて来ないのです。
去年、中共のいわゆる敏感日に、新たに任命された党書記が私に面談をしました。私は事前に 「彼のためにという正念を持たなければ」と自分に言い聞かせました。私は落ち着いて、実の兄と話しているように法輪功への迫害の実態を話しました。 私は「法輪功は佛教であり、絶対に反対してはいけません。 古くから『修行者を妨害してはいけない』という言い伝えがあり、僧侶や佛法を迫害するのは、お天道様から罰せられるのです。法輪功への迫害には法的根拠はなく、革命運動であり、いつか終わるのです。逃げ道を残しておいた方がいいです」と話しました。 会話は短かったのですが、私は彼の質問にもいくつか答えていて、彼からも尊敬されていました。
今年の初め、「学習教室(洗脳教室)」を開きたいと言って、「勉強してほしい」と言われましたが、私は厳しく断りました。そうすると、党書記は私が行かなければまた来ると言いました。家に帰ってから、私はまた自分を守るために人心が動いたため、洗脳教室に行かないように真実のことを伝えていましたが分かってもらえませんでした。
案の定、5月になって党書記がまた訪ねてきました。私は自分に「人心を捨てて優しく接してあげよう」と自分を戒めました。彼らがドアをノックすると、私はすぐドアを開けて中に入れました。私が警官に非協力的だったことを皆が知っているので、彼らは「上からの指示で、どうしても来なければならないんです」と言いました。私は「気になさらないでください、このことがなければ一緒に話す機会もないので、遊びに来たと思って話しましょう」と言いました。
彼らは書類に記入して洗脳教室に入ってもらいたい趣旨を伝えてきました。「私はただ本当のことを言いたいだけで、良心に反したことをしたくないだけなのに、こんなにプレッシャーをかけられています」と話し始めました。以前洗脳教室に入れられたとき、身の自由がなく、大法を誹謗中傷する動画を見せられて、さらに「反省文」と「誓約書」まで書かされ、書かないと不法に労働させられ、会社でも監視されて、お金もたくさん払わされたことを伝えました。
彼らは聞いた後「そうだったんですね」と言って帰りました。それから洗脳教室の話は二度とありませんでした。
以上が私の交流内容です。法に相応しくないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
師父、ありがとうございます! 同修のみなさん、ありがとうございます!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の経文:『二○○四年ニューヨーク国際法会での説法』