明慧ネットへの投稿についての私の理解
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年5月12日】2020年11月に家に閉じこもっていた時、法輪功迫害の実態に関する資料を作り始めました。プリンターの動きや用紙を確認しながら、その間の待ち時間を利用してネットニュースを読んでいました。

 アメリカの選挙が終わった直後で、ニュースはどちらかの候補者に偏っていました。私は、このことについて言いたいことがたくさんあると思いました。そして、キーボードの前に座り、指を動かし始めたのです。その後、誤字脱字をチェックして、スムーズに読めました。頭の中にタイトルが浮かんだので、それを書いて明慧ネットに送りました。

 送ってすぐに後悔しました。まるで役人の演説のようで、恥ずかしくなりました。

 2日後、その記事が掲載されたとき、私は最初それが何か分からなかったのです。見覚えはありましたが、記事には多くの変更が加えられていることに気付きました。自分の書いた記事はまるで盆栽のようにきれいに整えられていて、明慧編集者が編集して整えてくれていました。よく見ると、修正された部分はすべて党文化の言葉だったところであり、まさに私が取り除けなければならないものでした。

 私は、記事を書くことは、そんなに難しいことではないと感じていましたが、自分が実際に体験したことであれば、華美な言葉で飾り立てる必要はないと考えました。

 大切なのは、掲載されるかどうかではなく、その過程で自分を放下できるかどうかです。記事が掲載されるかどうかは、師父が決めることです。多くの文章は同修との交流のようなもので、そこまで詰め込む必要はなく、自然に出てくるものです。考えすぎてしまうと、素晴らしい文章が書けないかもしれません。

 私は多くの同修を見てきましたが、彼らは真面目に自分を修め、事実を明らかにしているにもかかわらず、文章を書けと言われると躊躇してしまうのです。恐怖心が邪魔をしているのです。自分の体験を人に伝えることができるのであれば、それを書いてみるべきだと思います。2021年の世界法輪大法デーを記念するための投稿を募集しているので、大法を実証するこの機会を逃さないようにしましょう。

 【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/14/422058.html)
 
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