なぜ携帯電話の安全性に注意を払う必要があるのか
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文/中国の大法弟子  

 【明慧日本2021年5月15日】最近、私は明慧ネットで、携帯電話の安全性についての記事を読んで、多くの修煉者が携帯電話での発言や使用方法に注意を払っていないことに気づきました。懸念される点を分析してみたいと思います。

 毎日、法輪功への迫害の実態を明らかにするために外出したり、自宅でグループ学法を開いたりしています。これらの修煉者は、安全性についてほとんど恐れる心がないように見えます。修煉者の中には彼らの勇気を賞賛する人もいます、それは彼らが非常によく修めているので、強い正念を持っているという認識を生むのかもしれません。彼らは、電話の安全性に注意するように言われても、真剣に受け止めていません。むしろ、このようなことを注意している修煉者は、恐れる心があり、自分がよりよく修めていないのではないかと感じてしまうのです。

 師父は『二〇一八年ワシントンDC法会での説法』で「皆さんに教えますが、どの電話機も盗聴器として使うことができるのです」とはっきりと説かれているのに、なぜ一部の修煉者は聞こうとしないのでしょうか? 彼らは自分の考え方を主張し、師の言葉を無視しています。また、自分の理解が法と一致していて、自分は他の人よりもよく修めていると思っているのです。

 なぜそのようなことを考えるのでしょうか? それは、面と向かって法輪功への迫害の実態を明らかにすることを恐れず、監視カメラの前で法輪功への迫害に関する資料を配ることを恐れない彼らが、なぜ携帯電話の安全性を気にする必要があるのか、ということでしょう。悪を前にしても恐怖心を捨て去ることが大切なのではないでしょうか? 私たちは堂々と人々を救うべきではないでしょうか? このような考え方は、そのような修煉者にとっても、法についてはっきりしていない多くの修煉者にとっても、非常に欺瞞的(あざむくこと)なのです。

 師父は学習者の質問に次のように答えられています。

 :人類社会でビッグデータがもてはやされています。大陸で監視カメラがますます増え、顔認証、歩く姿認証などデータ解析が濫用されています。資料を配り、真相を伝える大法弟子は今まで以上にリスクにさらされていますが、気にしないほうがよいのでしょうか?

 :大法弟子には大法弟子の道があります。正しく歩んでいれば、妨害が少なくなります。私はいつも言っていますが、正しく行動すれば、問題はありません。人心をもって行なっていれば、大法の仕事であっても、問題は免(まぬか)れません。しかし、この基準と物差しですが、そこまでできるのはなかなか難しいのです。基礎がなければ、難しいので、だから問題が起こります[1]

 真相を伝え衆生を救い済度することに旧勢力はあえて反対できません。肝心なのは、何かをするときの心構えにそれらに付け入る隙を与えないようにすることです」[2]

 弟子:大陸に戻っては1年あるいは半年ほど滞在し、ふたたび海外へ来ては法会など各種の活動に参加している学習者がいます。大陸で何の迫害も受けていないと言います。どのように対処すべきでしょうか。

 師父:これはちょっと考えるべきです。電話機を通じての盗聴ですが、皆さんに教えますが、どの電話機も盗聴器として使うことができるのです。中国共産党はあなたのおしゃべりをはっきりと聞いています。大法弟子の携帯は全部、盗聴されています。それでも自分がバレていないと思いますか? しかも、誰かに電話すれば、相手の電話も盗聴されるようになり、あっという間に広がるのです。バレていない人はあまりに少ないのです。不可能と言ってもよいのです。公に活動していれば、身分が知られてしまいます。ですから、中国に帰国して、不自由なく動いている人は、必ず問題があると思います」[3]

 修煉者の中には、師父の言葉から推論して、自分の考えが正しければ、悪はあえて何もしないだろうと考える人もいます。しかし、それは高次元の法理がこのように表示されないことが多いからです。修煉の中では、高次元の法理を悟っていても、それを言葉にできないことが多いことを誰もが知っています。それは別の次元に現れていて、人間の言葉でははっきりと言えないのだと理解しています。師父に頼まれたことは、すでに明確に語られていて、それが高次元でひっくり返るわけではないのです。それは正しい悟りではありません。

 何年も前に師父が説かれた法を思い出しました。

 弟子:法を広めるために、師父の経文を新聞に掲載してもよろしいでしょうか? 経文の内涵が曲解されてしまうのではないかと心配もしていますが?

 :曲解されてしまうことがあります。ですから、できるだけそうしないでください。なぜでしょうか? 皆さんに教えますが、私たちの法を広める最も良い方法は、皆で集団煉功することです。私たちは縁のある人を取り残さないようにと説いているだけです。私は全人類に法を得させるために法を広めているのではないと言いました。決してこのような概念ではありません。縁のある人に法を得てもらうと私は言っています。今日ここで、皆さんにはっきり話してもいいと思いますが、私たちがいつも言っている法を広める方法は、皆さんが外で煉功することと、社会で大法の本が書店で販売されていることです。私の法身は縁のある人に本を買い求めさせ、縁のある人であれば、本を読んですぐ学びにやって来ます。また私たちが外で煉功しているので、法身はその人が煉功場を尋ねて法を得るように按排するのです。偶然が重なるようにその人を煉功場に行かせ、煉功させます。或いは、他の学習者と連絡が取れるようにします。私はこのようにこのことを按排しています。

 皆さんはもっと多くの人に大法を知ってもらうために、多くの方法を講じました。これが皆さんの気持ちであり、私には分かっています。皆さんもよく行ないましたが、皆自発的な個人としての行動なので、それが正しいかどうかについて、私は言わなかったのです。しかし、私が法の中で大法のために残した法の広め方は、これだけです。外で集団煉功をし、法会を開催することと、書店で本が販売されているということです。縁のある人は本を買いに行き、読んで学びたくなれば自分で尋ねて来るのです。そういうことです。もちろん、時には学習者は個人的な行動として、他の人に知ってもらうため新聞に載せたりしましたが、それも多くの人に法を得させることができます。私はこのようなやり方も否定しません。なぜなら、縁のある人に知ってもらえるからです。ただ皆さんに残した最も良い法の広め方が集団煉功と法会であると私は話しただけです」[4]

 師父の教えを聞いた後、新聞に記事を載せると来るはずのない人が来るということが理解できず、混乱していました。

 何年も法を学んでいるうちに、法輪大法の情報を人から人へ伝える方法は、師が私たちのために按排してくださった方法であり、新聞に記事を掲載すべきではないと理解しました。

 同様に、面と向かって真実を明らかにすることや、カメラを恐れずにチラシを配布することも、法を検証するために師が按排してくださった方法です。師がそう説かれたのだから、師が決められたことであり、誰も変えようとは思わないし、旧勢力でさえも変えられないのです。

 師が携帯電話は盗聴器だと説かれたとき、その背後には旧勢力が仕組んだ卑劣な要素があると理解しました。この盗聴器は、師に認められていないのです。師は、電話盗聴問題に注意するようにと説かれました。これは、旧勢力の按排が私たちの空間場に入るのを防ぐためです。修煉者のグループ通信に携帯電話を持ち込んだり、修煉者に直接連絡を取ったりすると、悪が私たちの行動を簡単に監視できるようになります。これは旧勢力が按排した道に従っているのです。

 なぜ、修煉者の中には耳を貸さない人がいるのでしょうか? 自分を正当化することに執着しているのではないでしょうか? 結局のところ、それは時に簡単には認識できない私心に行き着くのです。この自己を実証するための執着は、「自分は正しく大法のことを行っている」という考え方と混同されています。

 修煉が終わりに近づくにつれ、修煉者の中には、悪が少なくなったと感じ、電話のセキュリティに関してリラックスし始めた人もいます。劣悪さが少ないのは理由の一つですが、もし私たちが法に基づいて物事を行わないのであれば、それは出発点の問題です。師の言葉に耳を傾けないということは、旧勢力を認めていることになります。法に基づいていない道を歩めば、どこに徳があるのでしょうか? それが修煉者のあるべき姿なのでしょうか?

 私の理解が必ずしも正しいとは限りません。ただ、これらの修煉者がまだ認識していなくても、他の修煉者の安全を考えてほしいと思います。私たちは皆、全員がひとつであることを忘れてはいけません。長い間、携帯電話の安全性に注意を払わなかったために、明慧ネットで次々と教訓が発表されています。私たちは自らを省みるべきではないでしょうか。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一九年ニューヨーク法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法二』「二〇〇二年ボストン法会での説法」
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一八年ワシントンDC法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『スイス法会での説法』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/3/9/421861.html)
 
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