【明慧法会】明慧ネットの海外報道プロジェクトに参加した体験と悟り
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文/オーストラリアの大法弟子

 【明慧日本2021年7月19日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは。

 師父は『各地での説法十』「明慧ネット十周年法会での説法」の中で、明慧ネットが極めて重要であると何度も言及され、また明慧ネットが偉大であると言及されました。この最後の段階で明慧ネットの役割をしっかりと発揮し、人を多く救うためには、記者の修煉状態と記事作成レベルが、非常に重要な要素になります。

 しかし、自分は何年もの間さまざまな報道を書き、また地元の記者の文章を管理しましたが、仕事のレベルはまだ求められているものとはかけ離れていました。最近はずっと内に向けて探し、安逸心、顕示心、歓喜心、名利心、その他に、人を救うことに対する緊迫感を探し出し、基本的には口先だけ、つまり必要なことをするだけで、心は本当は動かされておらず、文章の力強さ、効果、影響力、そして考察はみな表面的なものでした。これらの不足もみな、修煉を長期にわたって怠っていたからでした。

 一、修煉を怠る危険に気付き、邪悪に流される恐れの心を取り除く

 数年前、クイーンズランド、西オーストラリアとニュージーランドの記者が様々な理由で相次いで明慧ネットのオーストラリア・ニュージーランド特派員チームから離脱し、これによって新人の応募とトレーニングに頭を悩ませました。オーストラリア・ニュージーランド特派員チームの協調人はとても熱心に人を探し、トレーニングを行い、これによって、オーストラリアの主要都市は、今でも特派員がおり、さらにニュージランドの記者の報道レベルがとても速く向上しました。そして毎週オンラインミーティングを堅持し、本部の記者チームから学んだことはこのチームを維持するための重要な方法でした。まさにこのチームがあるために、この2年間オーストラリアで行われた数回の大型全国活動期間で、私たちの報道は全面的にタイムリーで、さらに、重要な記念日の活動報道と学習者のインタビュー文章は、さまざまな街でみなタイムリーに配信することができ、オーストラリアの学習者の全体的な修煉状況及びオーストラリア各界の法輪功への迫害に反対するための支持と声援を比較的全面的に反映しました。

 最も印象深いのは、オーストラリアの2019年度法会(2日間の活動)の報道でした。法会が始まる前の数週間、協調人は報道計画とそれに対応した準備を討論し始めました。みんな定例会での議論を経てみな比較的に自分の職責を明確にし、さらに詳細な計画書をグループ全体の同修に配布したので、法会前の学習者の物語の準備はもちろん、2日間の大規模な法会期間活動の撮影、インタビュー、問い合わせ、翻訳、記事作成、パレードや法会などの主要なイベントを中心に報道するとともに真相を伝える活動を中心に報道し、みなスケジュール通りに時間通りに進み、インタビュー担当の同修もみな師父のご加持の下、縁のある人をインタビューしました。この活動の報道は、記者チームの同修たちに対してみな大きな励みとなり、また全体で協力する力にも気づきました。

 しかし修煉を怠り、かつて自分が全体を離脱することになり、邪悪に隙を突かれたいきさつは次のようなことでした。

 それは2020年6月ごろで、オーストラリアは7.20インターネット集会および全世界共同署名活動の準備を開始し、オーストラリアのVIPによる迫害反対の共同書簡への署名を集めました。オーストラリアは外出禁止令が発出された期間でしたが、議員に連絡するなどこれらの事情のために、私は明慧オーストラリア記者チームの定例会に参加することに否定的になり、自分の心の容量を広げる必要があることに気づけず、協調人が送ってきた提案、すなわち体系的なライティング研修を主宰することに対して納得できず、当時とても忙しかったことを理由に拒絶し、さらに定例会に参加しないことを申し出、さらに携帯電話のチャットグループから退出しました。 

 結果はグループのコミュニケーションチャットを離れた夜、片側の肺に明らかな痛みと咳の消業状態が現れました。自分の心性とやり方に問題があることを悟りましたが、記者チームの協調人と同修に対してそれを認めようとせず、さらにチャットグループあるいは毎週のミーティングへ戻ることを自ら要求しませんでした。自分が間違っていることに気づいた後、痛みは消えました。7.20の活動及び報道が完成した後、すぐに元の仕事に戻りました。 

 にもかかわらず、今回の邪悪に隙を突かれた経験は、やはり自分の修煉に対する厳粛性を引き起こさず、自分の修煉に漏れがあることを重視せず、かつて1カ月以上法の暗記を停止し、煉功はさらに長期にわたって三日坊主の状態になり、体に明らかな老化現象状態が現れました。

 数ヶ月前、2人の親しい同修が相次いで亡くなりました。師父は「精進していない大法弟子、極端に走る大法弟子は直ちに、自分自身を正し、誠心誠意に法を勉強し、修煉してください。なぜならば、このような弟子は最も危険だからです」[1]と説かれました。実際、私も最も危険な部類に入り、表面上は仕事を努力していますが、修煉上はいい加減で、もしこれでも目を覚まさなければ、結果は想像に難くありませんでした。 

 しかしこの数日間で自分に「邪悪に流されることを恐れる心」という恐怖心があることを明らかに感じました。それは数週間前に同修が私の修煉中の問題を指摘した時のことで、その同修は「私たちと他の1人の同修3人が一緒に車を運転している途中で事故を起こし、私は車窓から投げ出されて壁に激しくぶつかった」という自分が見た夢の話をしました。 

 当時同修の話を聞いて、心の中ですぐに自分の状態をすぐに変える必要があることを悟りましたが、恐れる心も同時に芽生えていたことに気が付きませんでした(実際同修も私に注意していたが、真剣に受け止めていなかった)。結果、自分が夢の中で2度も危険に遭遇し、車を運転中まるで逆走しているかのように、正面から自転車が走ってきて、またさらに大きなトラックが横に並んで来て、車の往来が激しくなり、そしてトラックを避けようとすると自転車にぶつかることになり、まるで当時頭の中にあった一念であるかのようで、唯一生き残るためには飛ぶしかありませんでした。その後は衝突のシーンは夢の中では出てきませんでした。

 しかし「車が何台もやってくる」というシーンに対して、記憶が非常にはっきりしており「なんと、こんなに多くの人がみな私の命を取りたいと思っているのか?」と思い、この数日は煉功の時はいつも自分の恐れる心を排斥し、その後は師父が同修の口を借りて「恐れる心はそれを求めていることである」と気づかせてくださり、私は「すべてを師父にお任せするべきであり、しっかりと自分が修煉すればそれでいいのだ」ということを悟りました。 

 しっかり修煉し、具体的な行動の中で態度を表すことについて、その中の一つはオーストラリア・ニュージーランド記者チームの協調人の要求をまじめに受け止め、比較的同修に適合したライティング研修を主宰することでした。記者チームにベトナムの同修が1人おり、そのために研修資料はみな翻訳を必要としました。心を正しく保ち、心性を向上させ、資料の翻訳など行わなければならないとう比較的時間のかかる作業に対して、ネガティブな感情は生まれませんでした。さらに「オーストラリア・ニュージーランド記者チームの同修がともに向上できることを希望する」という一念があり、短期間のうちに、私たちが提供する原稿は基本条件を満たすことができました。研修資料は基本理論を除いて、主に明慧ネット上の体系的な文章のライティング研修でした。また本部の最新の研修(主要な内容)も記者チームの同修たちに共有されました。

 二、名を求める心を取り除く

 2020年、さらに印象深いある出来事があり、この出来事を通して自分の名に対する執着が強烈であることに気づきました。 

 2019年4月、オーストラリア・シドニー法会で師父が臨場され説法されてからすでに20年であることを考え、オーストラリア記者チームは『師父の恩を思い出す』に似た1編の文章を書くべきでした。定例会でこの提案を提出後、みんながとても協力し、同修に対するインタビューを時間通りに行い、私が自分で行ったインタビューが最も多く、合わせて同修5人にインタビューを行い、はっきり覚えているのですが、その中でクイーンズランド州の協調人の同修に対するインタビューはかなりの時間がかかり、しっかり書き終えた後に同修の意見を求め、大まかに言えばその原稿は記者チームの同修と私が共に心を込めて作ったものでした。

 しかし原稿が公開された後、石が海に沈んでいくかのようでした。当時、偶然定例会に1回参加した(参加しなかった時の言い訳は時間が遅いからだった)以外は現在のような平日チャットを通した本部の編集者との交流は多くはなく、そのため不安な心が災いし、編集者に聞く勇気がありませんでした。最初は心の中で喜んでおり、この文章は必ず大きな見出しで掲載され、つまり、記事が掲載される前後に強烈な歓喜心と名を求める心が生まれたのでした。 

 1日1日と日々が過ぎていき、文章は掲載されず、シドニー法会記念日を終えて、私は内に向けて探し始め、発表されなかったことに原因があることはわかっていましたが、当時は基本的に自分の執着がどこにあるのかを探さず、ただ「文章の内容に不適切なところがあったのかもしれず、たとえばいくつかの内容は書くべきではなかったのだ」あるいは「同修のインタビューは修煉状態が十分でないことを反映していたのだ」などと考えていました。 

 このように不安な心が心の中に隠れ、名利心が絶えず高まり、その後の1年間に、自分の書いた文章が目立つ位置に掲載されれば、心の中でとても喜び、もし別の街の文章がクローズアップされた場合、心の中に酸っぱい不満と嫉妬心が生まれ、嫉妬心はとても危険であり、すぐに発正念で取り除かなければならないことはわかっていましたが、名を求める心はさらに引き続き膨張しました。文章を発表するたびに、地元の報道であろうと、編集すべきだと修正を要求されたほかの同修の文章であろうと、私はいつもクローズアップされた状態で文章が見られることを期待しました。 

 2020年の法輪大法デーの期間まで、この回想文章は基本的に原文のままで「慶祝513」系列の1編として発表され、大きな喜びを感じた以外に、私はまた「師父のこのような按排は何のためだろうか」と反省しました。私は自分の強烈な名を求める心を目にしました。それから、文章に対してクローズアップされて発表されるかどうかは、もう心の中にはありませんでした。発表することができれば、感謝の気持ちを抱きました。 

 師父は「仕事をすることで皆さんは向上していかなくてはなりません。心性の向上こそ第一位であり、皆さんの昇華こそ第一位です。その心が純粋で清らかであれば、問題に気付くことができ、その時再び仕事をすれば、仕事は更に神聖になります。ですから、多くの人がきちんと仕事を成し遂げることができなかったのは、多くの心を抱きながら仕事をしているからです。この心も放下できず、あの心も放下できない、という具合です。自分のことのために執着しているにせよ、大法のことのために執着があるにせよ、何かの心がある限り、仕事を通じて、それが現れるようにします。特に心が良くない時、それがやり遂げられないようにします。ですから、本人にとっては阻む力が大きくなります。なぜならば、純粋で清らかでない心をもって、神聖なことをしてはいけないからです。もし、純粋で清らかな心で神聖なことをすることができれば、それこそ本当に神聖なのです」[2]と説かれました。

 もしかしたら自分が明慧の報道においてさらに純粋な気持ちで行ったので、同修も積極的に支持を提供したのかもしれません。その時から、オーストラリア佛学会の責任者は行う必要のある重要な記事について、直接私に連絡してくるようになりました。

 結び

 修煉において、私は明慧という大きなチームに追いつくために急いで走らなければならない学習者に属しています。今後さらに精進した状態を以って、ささやかな力を通してオーストラリア・ニュージーランド記者チームの同修たちを手伝い、共に向上できることを希望します。

 師父の慈悲なるご加護と救い済度に感謝申し上げます。

 同修の皆さんのご協力に感謝します。

 合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『理性』
 [2] 李洪志師父の著作:『長春輔導員法会での説法』

 (明慧ネット2021年法会発表原稿)

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/7/11/427804.html)
 
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