「尊重」という言葉の方がもっと適切だと思う
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年7月29日】世の中に真実を伝えるとき、修煉者はよく「善を持って大法弟子に接すれば、福報が得られます」と言い、ある人は「大法を大切にすれば福報があります」と言います。真実を伝えるということは、その言葉が人の心を優しくする効果があるということなのです。しかし、最近になって、これらの発言にはいくつかの問題が隠されていることに気づきました。人を救うたのよりよい仕事をするために、私はこのことを提起したいと思います。

 この言葉には二つの問題が隠されています。まず「善を持って大法弟子に接すれば、福報が得られます」という表現は、対象者が不正確です。時々、偽善的な警官や邪悪な党員が大法弟子を気遣うふりをして「三書」(保証書・決裂書・批判書)に署名するように説得し「気分が良ければ家で修煉してもいい、形式的に署名すればそれでいい」と言って「ゼロ行動法輪功の修煉者をゼロにする運動)を受け入れるように強要します。共産党員自身の頭の中では、はっきりとした区別はなく、このような行為を「善を持って大法弟子に接する」と言えますか? そのため、この表現の意味はやや曖昧です。

 第二に「大法を大切にすれば福報があります」という表現は、常人を高めすぎています。「大切にする」という言葉がありますが、大切にする人は与える側、大切にされる人は与えられる側で、大切にする人は優位な立場、大切にされる人は劣位な立場にあります。大法がどのように扱われるかということに関して、どのような生命も優位な立場に立つことはできません。この発言自体には常人を高める意図はないのですが、客観的に見て、世界が大法を正しく理解することに悪影響を与えるような心理的な意味合いを持っています。

 最近、法を勉強していて、師父の『論語』の中に、それをはっきりと表現している言葉があることに気がつきました。「人類は、大法のこの世での現われに対して、然るべき敬虔と尊重を体現することができれば、人々、民族、或いは国家に幸福や栄光をもたらすことでしょう」 [1]

 私は次のような意味だと理解しています。大法弟子や学習者として、大法に敬虔であるべきであり、世間の一員として、大法に敬意を持って接するべきであるということです。

 「大法を尊重する」という言葉は「世人が大法をどのように扱うか」という中心的な問題を直接指し示しています。実際、大法弟子への迫害はすべて大法への迫害です。世人が大法を尊重している限り、大法弟子を迫害することはありません。このように大法を尊重することでもたらされる大法弟子への非迫害は、大法弟子への通常の扱いです。「大切に接する」と表現してはいけません。大法を迫害する権利は誰にもないのだから「大法弟子を迫害しない、あるいは迫害しない」ことを「善を持って大法に接する」「善を持って大法弟子に接する」と表現しないことが、より重要です。

 師父の「人類は、大法のこの世での現われに対して、然るべき敬虔と尊重を体現することができれば、人々、民族、或いは国家に幸福や栄光をもたらすことでしょう」 [1]という法は、非常に大きな意味合いを持っています。具体的に法輪功迫害の真実を伝えるとき「大法を尊重すれば福報が得られます」という言葉を、特定の個人に対して、彼らは主に自分や家族の幸せを考えている心の状態に対して使えば、比較的シンプルで分かりやすく、師の教えの意味にも沿っているので、適切なのかもしれません。

 個人的な認識なので、適当でない所があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「論語」

 【編集者注:この文章は筆者の現時点での個人的な認識を代表しているものであり、同修の皆さんと切磋琢磨し、「比して学び比して修す」ためのものです】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/6/2/426442.html)
 
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