苦境に直面して苦の中の苦を耐えることを学ぶ
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2021年11月15日】私は若い大法弟子で、現在中国の大学で博士号取得のために勉強しています。 私は中学生の頃から法輪大法を実践しており、始めてから10年以上が経ちましたが、ここまでの道のりは苦しくもあり、優しくもあり、よろめきながら多くの奇跡的な出来事を経験してきました。 今回は、私が今年経験した心性の関を交流し、同じような経験をした同修に少しでも参考になればと思います。

 私の研究は、エネルギーとアルゴリズムに関するもので、研究の方向性はとても新しいものです。 研究を始めた当初は、指導してくれる人がいなかったので、自分で模索しながら進めていき、大変でしたが、何とか大まかなものを出すことができました。 順調に進んでいたので、私の研究の道も同じように順風満帆に進んでいくのだろうと思っていました。

 しかし、今年に入ってから、私の研究は停滞期に入りました。私の科学的なアイデアは無意味であることがわかり、私が改良したアルゴリズムは、初期のアルゴリズムよりも信頼性が低く、むしろ効果がありませんでした。 しばらくはどうしていいか分からず、毎日会社に出勤しても勉強する気になれず、一日中、外部の人に「いろいろな条件が整わない」「誰も自分のことを気にかけてくれない」と愚痴を言っていました。 毎日、ニュースを観たり、動画を観たりして、一日が過ぎていきました。

 この状態が非常に良くないことは分かっていますが、どこから変えればいいのか分かりません。 私の周りには同修がおらず、両親は邪悪な中国共産党に洗脳されており、私が法輪大法を修煉することを認めていませんでした。 高校生の時、通っていた学校の同級生でもある同修と出会いました。 大学時代から、苦しいときや心性の関を越えられないときは、いつもその同修と交流をしました。

 ところが今年になって、この仲間と連絡が取れなくなってしまいました。 勉強でも学法でも、とても悪い状態なのに、交流する相手がいないのです。 学業の挫折感、卒業や生活のプレッシャーが心に重くのしかかり、息苦しくなっていました。 この落ち込みやストレスを解消するために、気を紛らわせるために、暴飲暴食をしたりテレビを見たりしました。 しかし、これらの方法ではうまくいかず、むしろ状況はどんどん悪化していきました。

 その後、私は法を学ぶことに集中できなくなり、勉強はめちゃくちゃで手に負えなくなり、体はとても太っていて(2階に上がると長い間息切れしていました)、すべてが軌道を外れていました。その間、嫉妬心、色欲心、恐怖心、名声や利益を求める心、怠惰な心、苦を恐れる心、同修への依頼心、不平不満の心など、多くの執着心を探しました。これらの執着心を見つけて、少し状態は良くなりましたが、しばらくすると、また元の苦しい境地に戻りました、まるで大きな落とし穴に落ちたような感じでしたが、それでも青空が見えていて、そこから這い上がれるかもしれないという希望の光があったのですが、なかなか這い上がれず、背中には山があるような気がして、それが重くのしかかってきて、なかなか這い上がれませんでした。

 長い間、崩壊寸前のような状態が続いていました。 その後、私は法輪大法が自分を保護する傘であり、大法があれば私の学業の困難は解決するはずだと考え、求める心を見つけました。 その後、求める心を取り除く努力をしました。しかし、まだ状態が悪く、学法に集中できませんでした。

 ある日、私は圧倒され、息ができなくなるような気持ちになり、壁にもたれて静かに師父に助けを求めました。 心が落ち着いた後、突然、韓国ドラマかバラエティ番組を見ようという考えが頭をよぎりました。その時、私は突然、今までの出来事の根源に気づかされたのです。

 大学時代から、私には悪い習慣がありました。 人生で苦難や困難 に遭遇したとき、私はいつも意識の中で、そのような困難は出てくるはずがない、出てくるのは取り除かれていない執着心があるからだ、修煉状態に漏れがあるからだと感じていました。 そして、執着心を見つけ出し、それを取り除く過程で、私が直面する困難や難儀は解決されてはいませんでした。 また同じ難儀に直面すると、心は再び苦しくなります。その場合、無意識のうちに、落ち込んだ気分を解消するために常人が用いる方法を使い始め、時間が過ぎ去るのを待つか、避けるか、あるいは同修に引きずられながら背中を押されその心性の関を乗り越えるまで、テレビを見たり、食べ歩きをしたり、ゲームをしたりしました。

 この困難を乗り越えるために、法の勉強を選択することもありましたが、法の勉強は現実逃避として使っているので、法理が頭に入ってこないのです。 この関を乗り越えた後、次の心性の関にぶつかるまでに、再び本格的に法を学び始めるのです。 そのような難儀に遭遇するたびに、食べ物に執着であること、韓流ドラマやバラエティ番組に夢中であること、遊びに貪欲であることを取り除くためだと思っていましたが、その根本的な原因は、人生の困難に直面することを嫌がり、修煉は順風満帆であるべきだと考え、困難に直面しても前向きに捉えて打開策を見出すのではなく、逃げることばかりを選択していたことに気づきませんでした。

 このことは、私が修士課程を卒業した後に経験したことも思い出させてくれました。 当時、私は仕事に行くために慣れない街に一人でいて、寂しくて途方に暮れていました(私は世話をされて育ったので、一人で街に出て、アパートを借りることや会社での対人関係などに一人で直面したことがありませんでした)。

 当時、部屋に一人でいるのが寂しくて、寂しさを紛らわせるために、バラエティ番組を探して見ていました。 その後、出張から帰ってきたある深夜、肩がひどく痛くなり、痛みが本当に耐えられなくなったので、痛みを和らげるための音楽を聴こうと、法輪大法の音楽(「普度」と「済世」)をかけました。すると 、音楽をかけた瞬間、肩の調子が良くなり、今まで痛かったのが嘘のように全く痛くなくなったのです。 当時の私は、これは単なる病業だと思っていましたが、人生で遭遇する孤独などの問題に直面したとき、テレビを見るなどの常人の娯楽を用いて逃避するのではなく、問題に直接向き合い、解決すべきことは解決し、取り除くべき執着心は取り除くべきだということを自分に気付かせてくれたのだと思いませんでした。

 この現実逃避の執着心を見つけてから、私は法を読み始めました、たまたま『轉法輪』の第9講「大根器の人」で、「同時に彼は、苦の中の苦に耐えられなければならず、大きな忍の心をもっていなければなりません。捨てることもでき、徳を守ることもでき、また悟性が良くなければならない、などなども必要です」[1][人がこんなに辛い環境の下でもなお煉功しているのは、他の空間からはえらいと思われます。人に求道の心が芽生え、修煉しようと思い立つと、本当に大したものだと感心されます。こんなに辛くても、その人の本性は失われておらず、なおも修煉して元に返ろうとしているのですから」[1][だからこそわれわれは、こういう複雑な環境の中で修煉しようとしており、苦の中の苦に耐え、かつ大きな忍の心をもつように修煉しなければならないのです」 [1]と本の中で書かれていました。

 私は法を学ぶことに通じて、人生には苦しみがつきものであり、修煉者は苦しみの中の苦しみに耐えなければならないことをはっきりと理解するようになりました。 人生で苦しいときは、修煉して辛抱しなければならないし、人生で困難に直面したときは、逃げずに正面から向き合って解決しなければなりません。 テレビを見て自分をおとしめるような逃げ方をしてはいけませんし、大法を利用して、困難から逃れ、あるいは困難に立ち向かう逃げ道にしてはいけません。

 この部分を読んでいるうちに、何度も涙を流したくなり、自分のことは急にゴマのように小さくなったような気がして、心がぐっと開いてきました。圧迫されて息苦しい感覚が 跡形もなく消えていきました。その夜、発正念した時に、雑念が少なくなり、いつもは長いと感じていた時間があっという間に過ぎました。

 ようやく、一年近くも惑わされた自分の執着の根源を見つけることができ、師父の慈悲深さ、大法の博大さ、修煉の厳粛さを深く感じとることができました。

 正しくない所があれば、同修の慈悲なるご叱正をお願い致します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/10/14/432524.html)
 
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