安全性を重んじる基点について
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年1月11日】安全性を重んじることは非常に大事です。修煉の成熟に従って、同修たちはますます理性的になってきました。以前のような安全性を重んじない現象がますます少なくなっていますが、逆にもう一つの極端な現象が現れました。

 一部の同修は安全性を重んじるという口実で、真相を伝え、人を救い済度することにめったに参与しなくなり、さらに完全に参与しない人もいます。ある同修は集団学法にも参加する勇気がなくなりました。またある同修は「救うべきの人はすでに救われた」という話を同修の間に広げて、師父の法の一部分を取り出して、自分の都合の良い所を自分の行為に合わせて弁解します。またある同修は、「各ビルは、資料を配り終わったから、もう一度資料を配る必要はありません」と言って、他の一部の同修が人を救い済度することを緩めさせました。以前は、しっかりと真相を伝えていた人でも、徐々に緩んでいる人がいます。ある同修は「法を正すことはそろそろ終わりなので、今、何かあったら、邪悪に連行されたら、本当に惜しいです。もし迫害の中で耐えられなければ、台無しになります」と言って、法を正す事が終わるまで待っている状態になりました。

 安全性を重んじることは間違いではないのですが、その基点はどこにあるかということを見るべきです。もし自分自身の安全性だけを考えて、自分が迫害されるか、自分に損をもたらすか、自分が円満成就できるか? などを考えれば、それは「自我」を放下していないことで、漏れであって、まだ「私」のためという状態です。漏れがないまで修めてはじめて円満成就できます。もし、いわゆる「安全」のためなら、三つのことをやらなければ、これは本末転倒で、大法弟子の誓約に違背することです。「安全性」を自分が三つのことをやらないという理由にすることはいけません。 

 安全性を重んじることは、より落ち着いて、より成熟して三つのことを行うためで、師父が法を正す事を手伝い、より多くの衆生を救い済度するためです。これが大法弟子のあるべき基点です。衆生は今大変危険な状態の中に落ちていて、大法弟子の救い済度を待っています。大法弟子は彼らが救われるかどうかの唯一の希望です。私たちは衆生の安全についてもっと考慮すべきです。

 【編集者注:この文章は筆者の個人的な観点を代表しているものであり、正しいか否かについては筆者個人が責任を負うものとし、読者は自身で判断してください。】

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/1/3/436344.html)
 
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