一念の差は雲泥ほど離れている
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年5月26日】師父は「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある、とわれわれは言います」[1]と説かれました。これまでの修煉の中で、修煉者の考え一つで事態を左右することがあることをこの身をもって体験しました。

 同修Aさんは会社の前で車にはねられました。傍にいた同僚に早く病院へ行くよう言われましたが、Aさんは「大丈夫、私は法輪大法を修煉しているって知っているでしょう」と言い、そのまま出社したのです。その何日後、Aさんの同僚は車のナンバーを書き留めていたから、何かあったらその車の持ち主に連絡するようにと言ったところ、Aさんは「大丈夫だよ。私は何ともない」と答えました。すると、現場にいた他の同僚が「あれ? 気づかなかったの? あの車のボンネットが大きく凹んでいたよ」と話したのです。Aさんは車のことを特に気に留めていなかったので、全く気づきませんでしたが、彼女はどこも怪我をしていませんでした。

 同修Bさんも家の近くで電動自転車にはねられました。相手に「病院に行こう」と言われ、Bさんは見てもらったほうが安心だと思い、病院に行って検査を受けたところ、足首を骨折し、何か月間の自宅療養が必要だといわれ、出勤できず仕事を休みました。会社側は個人休暇という名目で処理されました。

 同修Cさんは一人暮らしで、ある日、転んで起き上がれず、師父の説法を思い出すことも、師父にお願いすることもせず、誰かが自分に気づいてくれることだけを期待していました。ちょうど息子夫婦が様子を見に来て、父親が床に倒れていることに気づいて慌てて病院に運びました。Cさんは助かりましたが、退院した後も薬を絶えず飲んでいます。

 ある夫婦の同修の家は資料拠点になっており、ある日、突然公安局の人たちが家に侵入してきました。女性同修はすぐに師父の説法「わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります」[1]を思い出しました。公安局の人たちは同修の家からプリンターや大量の真相冊子、チラシなどを不法に差し押さえましたが、同修夫婦を連行しませんでした。2人はいつも通りにやるべきことをやり、毎日師を助け、衆生を救う道をしっかりと歩んでいます。

 最近、当地域の同修たちにそれぞれ違う病の関が生じ、中には亡くなられた同修もいます。ショックを受けた同修もいれば、内に向けて自分を探し、さらに精進する同修もいます。また、ごく僅かですが、同修たちがそれぞれ関に遭っているのを見て、邪悪がどうのこうのとか噂を流す人もいます。その噂を聞いて、すべては虚像であり、衆生を救うことに対して妨害は許されないという同修もいれば、機械や大法の書籍を他の場所に隠したり、出かけることを恐れて資料配布や真相伝えにいけなくなったりする同修もいて、もちろん、妨害されずに通常通りにやるべきことをやる同修もいます。

 このような形のない迫害の中で、一念の差は雲泥ほど離れているものなのです。

 師父は「特に中国大陸の大法弟子は魔難と迫害の中でその一念が非常に大事になります。しっかり行なったかどうか、迫害されたかどうか、正しく行なったかどうか、どこまで迫害されたのかはいずれもあなた自身が歩んだ道、頭の中で考えたことと直接関係あります」[2]と説かれました。

 関に遭った時、それが身体上のものでも、精神上のものでも、正念が生じれば、何もかも一瞬にして消え去ります。しかし、常人の念が働けば、直ちに旧勢力の罠に落ち、困難に陥ってしまうのです。このような体験を経験した同修はたくさんいると思います。

 ですから、残されたわずかな時間は、たくさん学法し、しっかりと自分を修めていきましょう! 法をもって自分自身の行いを律さなければ、真に師を信じ、法を信じることができず、正念をもって正しい行いをすることもできないのです。実修してこそ、突如やってくる難関に直面しても、直ちに師父の説法を思い出すことができ、正念を保つことができるのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2021/10/20/432345.html)
 
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