自分の口をしっかり閉じること
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年11月30日】今日、師父の新経文『猛喝』を学んでいたとき、「口をしっかり閉じてください」[1]という言葉が繰り返し頭の中に響いてきて、どうしても気になって仕方がありませんでした。 心を静めて、この24年間の自分の修煉の道を振り返り、「自分は本当に修煉者になっているのだろうか?」と自問しました。答えは「いいえ」です。「口をしっかり閉じているのでしょうか?」 答えはやはり「いいえ」です。

 師父の「口を修める問題」に関する説法を思い返し、さらに自分を深く探し続けました。自分は師父の求める「口を修める要求」に達していないと思いました。同修との間で無駄話をすることもあれば、特に執着心にそそのかされ、自己顕示する行為は著しく目立ちます。時には、特に言う必要もないのに噂話を流したり、他人の善悪を陰で言ったりすることもありました。

 師父は「常人の中のことはその程度のことに過ぎません。私たち修煉者は従来語ることはありませんでした」[2]と説かれました。

 しかし、私は出来ませんでした。 特に、普段自分自身の修煉に注意を払っていないために、法に則った言動をとれないことが多々あります。普段から「口達者」、「どこに行っても良く受け入れられる」と感じています。しかし修煉となれば、その逆です。おしゃべりな私は、他人の話に聞く耳を持たないため、自分の修煉に多くの煩わしさをもたらし、同修を傷つけることもありました。

 自分は口達者でおしゃべりが得意なため、同修のことを議論するのが好きでした。常人社会の悪い癖のように、互いに相手の噂話を言い、修煉のことを話しているようですが、内心では本当に同修の向上を望んでいるわけではありません。 師父は「人の是非をうわさしているとき、神はこのような人をまともに見ようともしません」[3] と教えてくださいました。師父の仰る通りです。このような顕示心を帯びていて、私はそれでも大法弟子といえるのでしょうか? 

 また、自分には根強い中国共産党文化があり、特に他人の陰口が多いのです。常に、修煉において自分は他人より長けていると思い、あたかも同修の問題が分かっているかのように思っていますが、実はそうではありません。修煉者の本当の状況は、師父以外には見えず、理解できないものなのです。 同修の執着が見えたのは、私たちのためであり、また、双方が改善すべき点を師父が按排して下さっているのです。本当に同修の向上を願うのであれば、もちろん誠意と善意を持って本人に指摘すれば良いのですが、他の同修に陰口を叩くのは、善意ではなく、自分の魔性がもたらしたものであり、自分にも口業が生じることになります。同修の執着を見つけた時は、実はまさしく自分の執着が反映され、体現された時です。それに気づき、内に向けて探すことができれば、自分を高めることができるのですが、私はかえって自分を修めることができず、自分を高める多くのチャンスを逃してきました。

 口を修めることの大切さについて、みんなで交流しました。口をきちんと修めなければ、本当に修煉に支障をきたすということを、みんな認識していたのです。元々、 私は同修の交流を聞こうとしていたのですが、この時、無意識に「修煉者の間で陰口を言わないことが大事」、「陰口は中国共産党文化だ」という話を始めてしまいました。 しかし、話しているうちに、また「同修の誰それはどうのこうの、師父に言われたことをまだ実践してない同修がいる、それではどうなってしまうだろう」という話になってしまいました。

 帰宅して1時間も経たない間に、左下の歯がひどく痛み出しました。 たまたま夕食時で、激痛に耐えながら食事を終え、ちょうど正念を発する時間帯でした。 集団学法で自分の振る舞い、口を修めなかったこと、口をコントロールできなかったことを思い出したのです。私はすぐに心の中で、師父に自分の過ちを認め、同時に他の空間で私を妨害しているすべての邪悪な要素を浄化し、私の空間から旧勢力の邪悪な要素を完全に取り除くように一念を発しました。この時、すぐ痛みが消えました。

 口を修めることについては、師父が『轉法輪』の中で非常に明確にされています。しかし、私はきちんと出来ていなかったので、本当に師父に面目がありません。

 口を修めることができなければ、修煉者らしくありません。人の陰口を言うのは、中国共産党文化であり、実はこの党文化は、厳密に言えば個人攻撃なのです。不平不満を抱えながら人と話すと、自分のためにも他人のためにもなりません。ゆえに、他人の陰口を言ってはいけません。口を修めなければ、自分も他人も傷つくことになります。

 口を修めるためには、まず他人の話に耳を傾けることから始めなければならないと思います。真の修煉者として、相手に対して常に誠実で謙虚な姿勢であれば、まるで熟した穀物の実は常に下を向いている様に頭を下げているのです。成熟した修煉者になるためには、頭を下げ、人の話に耳を傾けることも学ばなければなりません。ある同修が言ったように「実は口を修めないことは、修煉の道で自分で穴を掘っていることであり、遅かれ早かれ自分で掘った穴に埋もれることになる 」ということです。修煉は厳粛なことであり、自分を修めることであり、 誰もが問題にぶつかったとき、自分を修めなければなりません。内に向けて探すことで、周囲の環境は良い方向へと変わっていくのです。

 最近、口を修めることをしっかり実行していなかったため、左下の歯が2本痛み、歯の根元から液体が流れてきて、口を修めることをしっかり行わず、旧勢力に自分の弱みを握られたと知りました。この時、私は『覚醒』という経文を学んでいました。自分の口を制御していなかったことに気づきました。そこでまず、自分の口を修めなかった悪い点を取除き、また、同修達に自分の口を制御しなければならないことを喚起するために、今日ここで書き出しました。

 私の個人的な理解ですので、法に則ってないところがあれば、慈悲なるご叱正をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『猛喝』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪(巻二)』「人を済度し法を説き、パフォーマンスをしない」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/10/27/450787.html)
 
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