注意喚起:自分の認識を同修に押し付けないように
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2022年12月12日】まずは、同修の間で起きたある出来事から話します。

 同修Aさんは80歳近く一人暮らしで、5年前から目が見えなくなっています。 2011年11月上旬、私はAさんの家に行き、一緒に法を学びたいと思いました。 私の決断は、Aさんと学法する同修たちにさまざまな意見を抱かせることになりました。 その中には、彼女は目が悪いから師父の各地での説法を勉強していないだろうから、一緒に法を勉強する時間はあるだろうと考える人もいれば、他人の家ではなく自分の家で法を実証すべきだと考える人もいました。

 師父は「異なる次元に異なる法あり」[1]と話されています。 師父はまた「皆さんに教えてもよいのですが、個人の目的の達成や、個人の嗜好や欲望を満足させるために行なったことは執着です。しかし公のため、大衆のため、他人のために行なった事、あるいは努力して仕事や授業をやり遂げることは当然すべきことです」[2]と仰っています。

 私は自分のいる次元から、そうすべきであると悟り、A同修の家に行き、一緒に法を学ぶことにしました。 師父の説法から、同修が困っている時に、助けるべきで、それは間違いではないということがわかりました。私は 同修達の反応に動じることなく、自分が悟ったことを実行したのです。

 ピーナッツオイル一本、野菜、お米、卵などの日用品を持って、同修Aさん宅へ行き、私は 数日間、同修Aさんと一緒に法を学びました。 ある日の昼、同修Bさんがやって来て、私はAさんの家で法を学ぶべきではないと指摘しようとしましたが、、A同修に引き止められ、何も言えませんでした。

 私とA同修の学法の時間になっても、AさんとBさんの話がまだ終わらず、2時間近くも話し込んでいたのです。 しばらく独りで法を学び、洗濯に行きました。 不思議なことに、洗濯物を干しにベランダに行き、二人の前を通り、歩いていると、二人の話し声だけが聞こえてきて、話す内容について、何も聞こえないのです。 私に聞こえないように、師父は私を助けて下さっていたのだと悟りました。 正しいことをしたのだと私は確信しました。

 同修Aさんの家に50日間泊まりました、私たちは50日間一緒に法を学びました。 正月になり、Aさんの家を離れる日がやってきました。そこで同修BがAさんの家に現れ、直に私に向かってきて、この50日間言いたかったことを大きな声で吐き出しました。 それでも、私は同修を批判したり、非難したりしませんでした。

 このようなことに遭遇したのは、私の修煉が関係しているはずで、そこには私の向上する要素もあるのです。 笑顔で胸の前で手を合わせて「正しきは彼 過ちは私」[3]と何度も繰り返しました。 結局、Bさんは自分のひどい態度に気付き、「ごめんね」と謝りました。

 ここで、この交流文のテーマに触れて、自分自身と同修に注意を呼び掛けたいと思います。同修Bが私のことについて非難をした時に、このようなことを話しました「ここ数日、師父が夢の中で私に何かあなたに伝えてとうながされました」。 私自身は、同修が、自分の執着や個人的な認識をもって、同修を不合理に扱うことを、師父が自分に話すように促したと言わないように注意する必要があると悟ったのです。 自分の認識を同修に押し付けないことです。

 類似したことが、別の同修にも起こりました。 最近、真相を伝えに出かけ、ある同修に出会いました。私と交流した時に彼女は自分に起きたことを私に話しました。 病業の関を乗り越えたある同修は、数日間彼女の家に滞在していました。彼女たちは共に煉功、学法して、関を超えた同修はとても良い状態でした。 ある日、彼女の家に行った同修の一人が「あなたは病業の関を越えているのなら、自分の家にいないで、なぜ他人の家に来ているの?」と言いました。病業の関を乗り越えたばかりの同修は、居づらくなり、家に帰って行きました。 その結果、家に帰った同修は数日後に、この世を去りました。

 私自身は、修煉者はそれぞれ修煉のレベルも、法の理解も、修煉の道も違うので、自分の理解を同修に押し付けることはできないことに気づきました。

 以上は私個人の認識であり、不正確な点があれば同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『転法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『転法輪法解』
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「誰が是 誰が非」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2022/12/1/449533.html)
 
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