「人の情」で自分と他人を縛らないで
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文/青年の大法弟子 

 【明慧日本2024年11月4日】私たち修煉者はよく「法を師とする」と言いますが、本当に「法を師とする」ことに従っているのか、それとも口先だけで言っているのか、自分の心に聞いた方が良いと思います。

 修煉の過程で、私たちは同修と接触したり、協力したり、交流したりしています。その中で、時々同修の間の「人の情」が私たちの考えを揺り動かすことがあり、「法を師とする」ことになっていません。他人の法に対する理解は、参考にはなりますが、基準ではありません。最終的に、私たちは法に則って、何をすべきかをはからなければなりません! 特に若い修煉者が年配の修煉者と交流する時、年配の修煉者の中には自分の認識に固執しすぎ、他人に自分の認識を押し付ける人がいます。若い修煉者の中には「人の情」によって、そのまま年配の修煉者の認識を受け入れる人がいます。

 若い修煉者は、古い修煉者の言うことだからそれが必ず正しいと思ってはいけません。一期の講習会、二期の講習会に参加した修煉者だから言うことが正しいと判断するのではなく「法を師とする」べきです。自分が年配の修煉者だから、あるいは先輩だからと言って、自分の認識を他人に押し付けるのはよくありません。それは他の人の修煉への深刻な妨害です。誰もが自分の修煉の道を歩まなければなりません!

 私は若い男性修煉者ですが、私の身に起こった「人の情」によって妨害された例を挙げます。私は年配同修のAさんと親しくしており、よく交流していましたが、Aさんは私にとても優しいのです。Aさんはよく私にショートメールを送ってきて、家族のことや彼が書いた詩など、何でも話してくれました。長い間こうして、私は「人の情」に囚われ、私の修煉に深刻な妨害となりました! 私は「人の情」に囚われたとわかりながら、Aさんに 「常にメッセージを送ってこないでください」とはっきり言えなかったのです。

 Aさんは、自分の認識に固執しすぎて、自分の理解を他人に押し付け、他人の認識や他人の物事の判断に対して評論するのが好きです。これらのことが私の修煉の邪魔になっています。時々、私は、「Aさんが私の師父なのか、それとも李洪志師父が私の師父なのか」と思うことがあります。もちろん、李洪志師父が私の師父であり、私の師父はただ一人です! 私は法を勉強している時、Aさんの言葉がよく頭に浮かび、操り人形になったように、Aさんの言葉を使って「法」をはかったことがあります。私は「大法」を修煉していると言いながら、Aさんのものを修煉してしまっていたようです。時々、私がトラブルに遭遇し、法を使ってはかろうとした時、私の頭の中にすぐ、Aさんの言葉が現れてきました。

 もし私たちが大法の修煉で大法で物事をはかるのではなく、同修の言うことではかるのなら、それは法輪大法を修めているのでしょうか? 他の門派のものを学んでいるのと何が違うのですか? 「不二法門」のことを忘れたのではありませんか? この問題の深刻さに気づいてから、私は真剣にAさんに「常に私にメッセージを送らないでください。私の修煉の妨げになります。Aさん自身がこうすべきだと思うなら、そうされたら良いのです。私は自分の考えでやります。今後はお互いに干渉しないようにしましょう。修煉を指導されるのは師父で、大法が標準です」と言いました。私がAさんに真剣に話した後、Aさんは私にメッセージを送ってこられなくなりました。

 私は発正念のとき、「法輪大法でないものはいらないし、師父が使われない言葉は使わない!」と、Aさんから私の空間場に押し付けられたものを除去しました。今思えば、私は「人の情」に流されやすく、他人に動かされやすく、法を師としていませんでした。Aさんは自分の認識を他人に押し付けることに執着しすぎで、魔に乗じられて私を妨害してきたのかもしれません。私はその罠にはまり、修煉に大きな損失をもたらしました。Aさんとは今でも時々、交流があります。ことわざに「人から恩恵を受けていると強いことが言えなくなる」と言うように、人間は「人の情」という鉄の檻に囚われやすいのです。

 同修の間で、交流することは必要だと思いますが、修煉上のことについて、何もなければ、そこに座って世間話をする必要はなく、だらだら話さず手短に話し、早く本題へ入ったほうが良いと思います!

 修煉に関することでなければ、単にそこに座っておしゃべりし、修煉のことを交流しているように見えますが、実際には雑談しており、それを続けると法に対する認識を妨害しあうのです。交流するとき、私たちは口を修めることに注意を払う必要があり、無意味な話をせず、他人が良く修めているかよく修めていないかなど、勝手に評論しないでほしいのです。私たちの本当の修煉状態は師父だけが分かっておられ、同修でも、それを見ることができないのです。

 師父は「他の法門の誰に見てもらってもいけないばかりでなく、同じ法門の弟子に見てもらってもいけません。そもそも誰も言い当てることはできません。なぜなら、あなたの生涯はすでに変えられており、修煉するための生涯となっているからです」(『轉法輪』)と説かれました。

  誰々に問題があるとか裏で言ってはいけません。それは魔がやることです。修煉者の次元が限られているので、天目で見たことは必ず正しいとは言えません。もし、その修煉者の修煉状態が良ければ、言うことに影響されることはありませんが、その修煉者の修煉状態が良くなければ、壊されてしまう可能性があります。あなたはその罪業に耐えられますか?

 師父は「皆さんに教えますが、くれぐれもこのようにしてもならず、考えてもいけません。修煉の人は誰それを手本にしてはならず、法を師とすべきです」(『二〇〇四年ニューヨーク国際法会での説法』)と説かれました。

 修煉の中で、周りの同修が年配であろうと若かろうと、一期生や二期生だろうと、よく精進して、大法の真相をよく伝えていても、彼を崇拝せず、彼の認識にはめられないでほしいのです。私たちは法を師としています。それを做すところに到れば、修めることになりますが、そうでなければ常人なのです。

 
翻訳原文(中国語):https://www.minghui.org/mh/articles/2024/10/23/484152.html
 
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