師父への敬意と大法への信頼は、言葉だけではない
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2024年3月11日】今までの修煉の過程で、特に印象に残っているのが修煉が「行き詰まってしまった」時が二回ありました。最終的にどちらも、私が師を尊敬し、法を信じることに対して新たに理解した後、それらの問題は思い掛けず解決しました。

 明慧ネットで同修が「師父は私たちが天国に戻る道を切り開いてくれました」という記事の中で「私たちは一体何を修めているのでしょうか? 私は悟りました。私たちが修めているのは、始終一貫して師父への敬意と大法への信頼です」と述べています。

 私はこの言葉を聞いて、とても心を打たれました。なぜなら、私も同修が言っているのと同じ感覚を体験したからです。確かに、私は精進して修煉しているとは言えません。しかし、多くの場合、意識の中で「その試練を私は乗り越えるべき」と感じることが多々あります。この考え方は自分自身を向上させます。「その試練はかなりうまく乗り越えたし、別の障害もすぐに克服した」といった感じです。しかし、理性的に考えると、この人間世界で、自分の力で本当に何ができるのでしょうか? 私たちはとても弱い存在で、持っているすべてのものは大法から与えられたものであり、すべては師父の加持によるものです。何も誇ったり喜んだりすることはありません。これは絶対に心に留めておかなければならないのです。

 法を学ぶ中で受けた向上も含めて、私の現在のレベルでは、大体二つの状況を体験しました。一つは、大量の法を学びながら、法理を悟りました。それは、強力な法によって、私の不正確な、法理に適わない観念や考えが正されることです。もう一つは、法の中で新しい意味を悟っていないように見えるかもしれませんが、心を込めて法を学び、他の邪念を持たず、無限の尊敬をもっているため、その瞬間における師父への尊敬、法の信頼の度合いが基準を満たしています。この時に、師父が私に新しい扉を開いてくれて、一歩前進することを許してくださると感じました。毎回そのような時には、「師を尊敬し、法を信じる以外に私は何もしていないこと」という思いにひたります。私が修めるべきなのは、師を尊敬し、法を信じることだけです。そうすれば、大法は全てを与えてくれます。 私がどれだけ有能か、自身を通して何を悟ったか、どの難関を突破したか、どのレベルに達成したか、そういうことではありません。全ては法の恩賜です。

 師と法を信じることについて、もう一つ、私の体験があります。それは、長年抱いていた誤解でもあります。私は功能を閉ざれている状態で修煉しており、体も完全に鈍感なタイプです。さらに、初期の頃は法への理解が浅く、自分の心が常に純粋な状態に達することができず、生じる念はあまり力を持ちませんでした。同修が神通を用いたり、自身の身体に奇跡が起きたりするのを目の当たりにしても、私にはそのような「神奇な出来事」が一度も起こりませんでした。つまり、次第に、私はそのような状態に慣れてしまいました。神通の存在は信じていたものの、潜在意識の中では自分が神通を使えないと感じていました。

 時々正念を発する時間になると、会社で仕事をしており、職場ではできないいので、別の場所に行き、正念を発します。しかし、この場所の隣でよく、たばこを吸う人がいます。煙の匂いを嗅ぐとむせて唾が止まらなく、唾を飲み込むばかりになりました。すると、本当に正念を発することを妨害されていると感じ、嫌な気持ちになります。そんな考え方は良くないと気づき、怨みを持つことなく、理解しようと努めながら我慢していました。ある日、ふと頭にこんな考えが浮かびました。「師父、どうかこの匂いを遮断するよう助けてください。正念を発するのに集中できません」そう考えると、本当にたばこの臭いが感じられなくなりました。不思議だと思いました。些細なことかもしれませんが、私にとっては特別な出来事です。なぜなら、こんな正念を持ったこともなかったし、自分も師父からたくさんの能力を授かった大法弟子だと信じることを忘れていました。まるで自分の失った貴重な宝物を見つけたようでした。

 この出来事を通して、自分自身を振り返ってみました。これまで、自分は常に師父と法を信じていて、自分自身だけを信じていないと思っていましたが、実際には。それは、法を正しく理解していないこと、そして法との関係性や、自分が法の中でどのように位置づけられるべきかを理解していないことが原因でした。私は法によって造られた生命であり、法の一粒子です。私のすべきことは、ただひたすら法に同化していくことです。法の中には、私たちが修煉の道で必要とする全てが、師によって用意されています。それはすぐそこにあります。思い出すことができ、正しい考えを起こせば、師父が按排されたものが、その時に待っています。それは私たちが信じるかどうかにかかっています。

 したがって、私がこれまで抱いていた誤解は、実際には自分自身を信じていないと感じることではなく、私の人心が自分自身に与えている言い訳で、師父と法を信じないための隠れ蓑なのです。つまり、根本的には師を信じず、法を信じていないことです。師父が言われたすべての言葉を心に留めずに、選択的に受け入れました。それは自分の理解や頑固な観念が入り交じっており、師と法を信じる度合いが大きく削られてしまっていることを認識しました。本当に恥ずかしいことです。

 個人的な体験で、理解がまだ浅いのですが、法について不十分な点があれば、同修のご指摘をいただければ幸いです。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2024/3/5/473843.html)
 
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