邪党文化は私ではない
■ 印刷版
 

――邪党文化の根を一掃し、法理を更に明確に認識する

文/湖北省の大法弟子

 【明慧日本2012年11月15日】先日、私は家で法を暗記して、子供はリビングで師父の大連説法のビデオを見ていました。私がリビングを通った時に、内心で少し師父の説法に抵抗を感じる気がして、師父の顔を見る勇気もなく、見たくもなくなりました。当時あまり深く考えませんでしたが、翌日になってまた繰り返しその考えが湧いてきました。子供が私を誘って一緒に説法を見ようとしたのに、なぜ抵抗を感じるのかと、急に警戒心が出てきました。私は師父の弟子であり、師父は慈悲心で私たちに宇宙の法を説いておられるのに、なぜ聞きたくないのですか。これは小さな問題ではなく、どこかに修煉の漏れがあると思いました。

 心を静めて、内に向けて探してから、その師父の説法を聞きたくない考えは私ではなく、傲慢な旧勢力だと分かりました。そこで、師父にご加持をお願いし、正念を発してそれを排除すると、次第に抵抗を感じる考えがなくなりました。深く内に向けて探し、もう一つのことがわかりました。数年来、私はずっと困惑していたことがあり、それは明慧ネットで同修の交流文章を読むと、同修たちは大法弟子としての誇りと光栄さが行間に表れていますが、私はこれまでそのような感じはありませんでした。法を得た最初からも、人に大法の素晴らしさを教える情熱がなくて、なんとなく自分が気功をやっていることを人に知られたくない気がしました。私の今までの人生は割と順調で、長い間に自己満足、我がまま、人に厳しい、人を軽蔑する性格になってしまいました。以前、気功を習っている人はほとんど爺さん婆さんだけで、無知の人ばかりじゃないかと思いました。私は師父について修煉してから、師父の広大な仏恩と慈悲を感じて、自分が幸せだと思うものの、大法弟子としての誇りと光栄さが内心からなかなか湧いてきませんでした。なぜこうなるのでしょうか。私はずっとその執着がどこにあるのか分かりませんでした。

 その日の夜、私が静かに正念を発した時、突然ある念がありました。それは邪党文化と言うことです。邪党文化は天地を無視して、愚かで高慢、狂暴なものをずっと無理やりに私達の頭に注いています。邪党は伝統文化と伝統信仰を破壊して、いつも誹謗中傷の手段を用いて各領域で邪党の理念を注ぎ込み、私達を小さい頃から愚かで無知にしました。それで私たちは、仏を信仰することを迷信、無知と見做し、自覚的に伝統の正しい信仰を排斥して、神伝文化の伝承を受け継げなくなりました。たくさんの観念、考えが意識してないのに湧いてくるのは、まさに邪党文化から来たのです。たとえば、私が真相資料を配るときに、突然恐れる心が湧いてきて、監視モニターがいっぱいで、邪悪が私を知っていて、顔が映ったらばれる、それならどうしよう・・・と様々な雑念が生じました。まさにこれらのすべてが邪党文化の反応なのです。最初から邪党は偉大、光栄、正確と吹聴して、邪党が間違いだと判断するものは全て間違いなのです。すると、私達の正当な信仰、自分の権利は逆に、やましくて公にできないものに変わってしまいました。いつも大法修煉、真相を伝えることを迫害されることに関連付けて考えてしまい、邪党の意志と違うなら迫害されることも当たり前のようになり、邪党が駄目だと結論付けたたことをしてはならず、するとしてもこっそりするしかないという考えこそ間違っています。これこそ邪党文化の考え方です。邪党文化とはまさしく、人の第一念が邪党の考えであり、修煉者の正念ではないのです。これは人としての正常な考え方ですらないのに、どうやって人のために考えて、衆生を救い済度するのでしょうか。

 旧勢力が邪党文化を我々の生活の各領域に入れ込んだので、私たちはしっかり学法すると同時に『九評』『党文化の解体』などをよく読んだ方が良いと思います。自分自身が邪党文化に汚染されたままで、ときどき何が邪党文化で、何が自分のことかを見分けることができなくなりました。そして、自分の基準を用いて大法、他人を見る観念も邪党文化であると、最近私は思いました。自分自身の邪党文化を綺麗に洗い落として、初めて師父の法理を入れることができます。

 個人の次元に限られて、上手く表現できていないかもしれませんので、ご慈悲に指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/11/1/264764.html)
 
関連文章