文/中国の大法弟子
【明慧日本2013年4月2日】私は自分の人心に阻まれ、1999年に迫害が発生して以来、グループ学法に参加せず、ずっと家で法を独学しましたが向上が遅く、学法の効果も良くありませんでした。私は困難を克服し、ある同修夫婦と一緒に学法グループを作りました。昨夜、私達は一緒に学法し、3人で順番に法を一段落ずつ読みましたが、非常に集中出来て、雑念は全くありませんでした。しかし、同修が「高い次元で修煉する時は、すべて無為で、動作も気機に導かれるがままに動き、意念による導引は一切なく、呼吸法なども問題にしません」(『轉法輪』「第一講」)という部分を読んだ際、私はびっくりしました。1997年4月に修煉を始めて以来、私は『轉法輪』を無数回読んできました。しかしいつも「導引」を「引導」と読んでいました。真の修煉者は誰も知っていますが、師父の法は金剛不動で、師父もこの方面の法を数回説かれました。私は長い間読み間違えて、妨害されても気づかないままでいたのではありませんか? 師父の法を変えてしまったのではありませんか? 決して小さな問題ではありません。
帰宅してから私はじっくり考えてみました。他にも読み間違えている箇所もあります。例えば、『轉法輪』「第九講」のこの部分、「人の白い物質と黒い物質という二つの物質は、相互に転化することができます」の「相互」を私はいつも同じ意味を持つ「互相」と読み、「妬嫉心」を「嫉妬心」と読んだりしていました。
原因は何でしょうか? 深く掘り下げていくと、私は自分のなかに師と法を尊敬しない心や、更に、いつも高慢で、独りよがりの心がありました。大卒の学歴を自慢し、自分は知っていることが多いと思って、つい師父の法を読む際に真面目にならず、さっと目を通してしまいます。このような心の現れは家庭生活においても、仕事においてもみられ、妻に話しかける時はいつも傲慢で威張り、子供には命令形や指図のような口調で話し、そのため妻はいつも心から私を排斥し、子供は私に反感を抱いています。このような家庭の雰囲気の下で、私はどうして大法の素晴らしさを実証出来るでしょうか? 仕事中、私はよく強い口調を使っていましたが、そうすれば鶴の一声で何でも決まり、気迫があると思っていました。師父の法を読む際も、私はよく人為的にある句やある単語にアクセントを置き、人為的に自分の語気や語調を加えれば抑揚がはっきりしていて分かりやすいと思っていました。しかし、私と一緒に学法をしている同修は、学歴は低いのですが、語調は自然で穏やかで、その中から優しい心と慈悲の心が滲み出るように感じられます。私のこれらの良くない心は本当に無くすべき時期に来ています。
以上は、私と同じような問題を持つ同修の参考になればと思います。不適切な部分があればご指摘ください。合掌。