「内に向かって修める」ことは最も有効な手段
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 【明慧日本2014年12月12日】修煉の中で、魔難やトラブルにぶつかった時、いつも内に向けて探さなければと認識しますが、問題を見つけても、根本的な原因がどこにあるか分からず、時間が経つにつれ、どうしようもない消極的な状態に陥ってしまいます。多くの同修と交流したところ、私だけでなく、皆こういう状態があると分かりました。なぜでしょうか?

 一、「内に向かって修める」ことは最も有効な手段

 以前あることを経験したことで、この問題を認識するようになりました。師父はほぼ毎回の説法の中で、「内に向けて探すことは最も有効な方法です」[1]と教えてくださいました。私は修煉の中で、師父が説かれた内に向かって修めることが本当に最も有効な方法だと分かりました。

 当時見た光景をいまもはっきり覚えています。円錐形の法器が胸の上にあるのが見え、尖っているほうが胸に向かって、つまり「心」に向かっていました。私が心を静めて内に向けて探し始めると、主意識が直ちに強くなり、分かった一部の意識が法器の丸いほうに入り、円錐形の法器は「心」へ突っ込んで行きます。その場面はまるで鉱山の労働者がドリルでトンネルの壁に突っ込んでいるようです。私の胸(心)にある一層一層の硬い物質が、この円錐形の法器により粉砕され、削り落とされて行きます。すべての硬い物質を全部破壊して「心」の最も深いところに辿り着くと、その中は極めてきれいで美しい光あふれる空間になっています。

 胸(心)をふさいでいた硬い物質は、他の空間での執着心の現れだと分かりました。一つ一つの執着心が一層一層の硬い物質であると同時に、一つの執着心にまた多くの層があり、これらの異なる層の異なる執着心が絡んで重なり、胸(心)を塞ぎ、強大な硬い壁になっていました。

 この強大な硬い壁はどのくらい厚いのでしょうか? 道家は「人体は一つの小宇宙」だと言います。もし、人体が本当に一つの小宇宙だとすれば、この壁は恐らく十万八千里に留まりません。

 「内に向かって修める」ことは最も有効な方法であり、それ自体一つの生命でもあり、純粋で腕白でじっとしていられないのです。大法弟子が内に向けて修めれば、生き生きして力が溢れ、いっぱい充電したように回転して前へ進み、一層の硬い物質に突っ込んで、間もなくそれを破り、中の最も深いところにあるあの美しい空間に辿りつきそうな時、更にエネルギーが溢れ、急速に回転します。しかし、大法弟子が内に向けて探さず、表面に止まり、心が固まって自分を修めない時、彼も怠けてダラダラし、あなたがやる気がないのに、どうして私が懸命に働かなければならないのか、という有り様です。

 内に向けて修める法器は、普段は胸(心)の前にあって、動いていませんが、修煉者の意識で動きはじめます。修煉者がトラブルや魔難にぶつかる時、直ちに内に向けて探し自分の主意識を修めることができれば、この修煉者の主意識が強大ではっきりしていることを示しており、その主意識がこの法器をコントロールして、法器の主意識になって駆動し、内に向けて執着が形成した硬い物質を粉砕して行きます。修煉者のエネルギーが大きければ、法器の力も強く、深く突っ込むことができ、甚だしい場合、その一層の硬い物質を完全に破ることもできます。法を勉強して「真念で満天が晴れ渡る」[2]を読むとき、これと似たような状態を感じます。

 師父は大法弟子の身体の中にたくさんの種、たくさんの機制を植えつけてくださいました。内に向かって修めるのもその中の一つの種だと悟りました。

 内に向かって修める法器は変化します。私が見た時は円錐形だったのですが、実は他の形状、他の形式で表れることもあります。

 心性を修めることは、これらの障害物を取り除く過程であると気づきました。障害物を取り除いて、心の最も深いところにある極めて美しい空間に辿りつくと、慈悲で穏やかなエネルギーを感じて、慈悲のエネルギーの状態に入り、すべての魔難とトラブルが溶解します。

 大法弟子はいつでもどこでも自分の心の状態に注目すべきです。仕事、社会生活、トラブルや魔難の中で、怨んだり、焦ったり、いらいらしたり、心が動じるなどの状態が現われたら、直ちに自分の心の状態を調節して、常に慈悲で穏やかな状態でいられるようにすべきです。

 修煉者が普段の仕事と生活の中で、長期にこういう慈悲で穏やかな状態にいれば、あなたはとても強大なエネルギーで体を包まれていると感じ、座禅をしているとき、卵の殻の中に座っているような状態です。座禅のときに限らず、仕事や生活の中でいつでもこのような状態が現われてきます。

 大法弟子を試すために、旧勢力は多くの試練を按排し、しかもその多くは変異した破壊的な試練です。いろいろなトラブル、心性の摩擦、魔難は、あなたの心性の修煉が確実にできているかどうか、試練の中で修煉者が慈悲で穏やかな状態を保つことができるかどうかを見ています。大法弟子を向上させるためだと彼らは言います。あなたができなければ、彼らの企みが的中したことになり、彼らの按排が正しいと証明することになってしまいます。

 二、内に向かって修める程度は異なる

 内に向かって修めることは精進を要求されます。例えば病業が現われ、或いは人とぶつかってトラブルになったり、面倒なことにぶつかるとき、修煉者は内に向かって修め、自分のどこに問題があるかを考えれば、関を乗り越えられるかもしれません。常人は外に向かって探すことしかできず、内に向かって探すことはできません。常人がいったん内に向かって修めたら、それは巨大な変化となり一つの生命として根本的に変わります。

 しかし、しばらく修煉すると、要求は高くなり、問題にぶつかったら、内に向かって探す意識があるだけでなく、自分のどの心が問題になったのかを明確に探して、修煉の中でその心を取り除かなければなりません。この時、修煉者に対する大きな試練になるので、本当に修煉したい態度を持って、一つ一つの人心を探していかなければなりません。

 表面からあなたが多くの心を見つけだしても、役に立ちません。表面だけに留まり、軽々しく問題を解決できないので、真にこの関、この難が対応している人心を見つけださなければなりません。修煉者が真に問題を見つけて解決した時、全身が一瞬に震えを感じるとか、或いは体中がすっきりしたたような、強大なエネルギーを感じます。

 確実に修煉する態度は、真剣に自分を探しているかどうかに現われます。数時間、甚だしきは一日かかって探す必要があるかもしれません。時間が唯一つの検証要素なので、最も重要で、肝心なのは真剣に自分を探す状態を保てば、一念が万念に代わります。あなたが要求された状態に達したら、師父があなたの頭にこの関や難と対応している事を示して、あなたに問題の所在が分かるようにしてくださるかもしれません。

 更に修煉して行くと、要求も高くなります。修煉者は悟性を問われるので、関係する法理を悟り、その法理で修煉を導いて行かなければなりません。法の勉強は本を読むだけでなく、法に同化するのです。学びながら、自分がやり遂げているかどうか、要求に符合するかどうかを照らします。理解できないところを放っておかないで、メモをします。そこはちょうど自分が向上しなければならない問題かもしれないので、よく悟る必要があります。

 また、更にしばらく修煉すると、要求がまた高くなり、自分だけが良く修煉できてもまだだめで、周囲の環境を円融しなければなりません。トラブルや摩擦や魔難に関わる人、彼らを円融する必要もあるので、彼らが心のバランスが取れるように、これらのことによって業を造らせないようにしなければなりません。

 修煉者の次元の向上に従って、トラブル、摩擦、魔難に関わる人もますます多くなり、及ぼす環境もますます広くなり、事もますます大きくなります。このすべてを修煉者はバランスよく円融していく必要があります。

 更に修煉して高まると、バランスよく円融するだけでなく、自分と関係する環境と人に真相を分からせ、理をわきまえさせなければなりません。更に進んでいくと、法を得て修煉することになります。

 私はただ一つの考え方、方法で内に向かって修める程度の違いを述べたのですが、必ずしもこうとは限りません。こう述べるのは考えを広く持ち、更に冷静に大法を悟ることに有利だからです。実際の修煉状況は人それぞれ皆違います。修煉の道が異なり、決まりもないので、互いに交流し合って、参考にすれば良いと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」
 [2] 李洪志師父の経文:『感慨』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/11/25/300670.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/12/10/147233.html)
 
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