自己の殻を突破し 直接真相を伝える事の楽しさ
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文/山東省の大法弟子の口述 同修が整理

 【明慧日本2015年2月26日】何日か前の夕方、私は真相カレンダーを持ち、自転車に乗って外へ出掛けました。走っていると、遠くで建築現場の出入口から何人かの人が出てきて、道路の端のマイクロバスに向かって歩いているのが見えました。彼らは急いでいて、バスに乗って家へ帰ろうとしているようです。私はバスまで急いで走って行き、中の人に「真相カレンダーは欲しくないですか?」と聞きました。すると彼らは声を合わせて、「いる、いる、いる、私にください、私にもください、その手提げ袋ごとくれればいいよ」と言いました。私は彼らに「平和で安らかな生活を送りたいなら、必ず脱党しないといけません」と言いました。すると彼らはまた声をそろえて「脱党する、脱党する、脱党する」と言いました。ある人は「私は兵隊になった事があるから党員ですが、この中でただ私だけが党員で、他の人はみんな団員です」と言い、みんなも同じように言いました。その兵隊になったと言っていた人は「ただ私に脱党させようとするのはいけません。あなたは私に法輪功のDVDを見せないといけないのです」と言いました。あとで私は彼に大法のDVDを渡しました。

 バスが走り始め、彼らは嬉しそうに私に向かって手をふりました。遠ざかるバスを見て、私は胸がいっぱいになりました。

 2004年に『共産党についての九つの論評』が出された後、全ての大法弟子は中国共産党からの脱党を勧め、真相を伝え始めました。私は恐怖心により、親戚と知り合いにだけは真相を話しましたが、路上を通る見知らぬ人たちには声をかける事ができませんでした。眼の前を通り過ぎる人の背中を見て、焦りながらも、私は後悔していました。「人を救うチャンスを掴む」という事や「時間は人を待たない」という切迫感を私は知っていますし、その後悔している時の心の中の重く、苦い感じは何も言いたくないほど嫌なものです。しかし、なぜかこの関を突破できませんでした。

 2010年5月、妹が農村から私がいる町に住みつきました。妹は来てから、真相資料を配り、脱党を勧め始めました。彼女が私に与えたものは小さくありませんでした。私は「妹は農村からこの見知らぬ町に来て真相を伝える勇気があるのに、どうして私は出来ないのか?」と思い、「これではダメだ、私は絶対に突破し、歩き出すのだ!」と思いました。その頃は、世界法輪大法デーまであと何日かという時で、私は心の中でいつも「5月13日はみんなが真相を伝えに行くし、私も行く」と繰り返し言っていました。

 そして、5月13日がすぐに来ました。空が明るくなると、私はすぐに起きて、適当に朝ごはんを食べ、家事を終えて、自転車に乗り、急いで妹の住んでいるところへ行きました。そして妹に「今日は5月13日です。みんなが真相を伝えに行く、私たちも急いで行こう!」と言うと、妹はすぐに「行こう!」と答えてくれました。

 私たち2人が付近の川辺に来ると、60歳ぐらいの男の人が噴水池から水をくんで花に水遣りしていました。私は近くに行って、優しく挨拶をしました。そして脱党の事を話すと、その人は「私は共産党員です。私を脱党させてください」と言いました。私は彼の名前を聞くと、彼は名字を「賀」だと言いました。私は「あなたはちょうど水を汲んでいたから、名を『賀水』とよぶことにしたらどうでしょう?」と言うと、彼は喜んで「その名にします!」と答えました。そして彼と別れて、そのまま前へ行くと、今度は一人の女性に出会いました。私たちはお互いに自分から挨拶しました。そして私が脱党の事を話し始めると、彼女は「私は共産党員です」と言い、そして「私は絶対に本名で脱党する」と言いました。

 こうして私を何年も縛ってきた鎖がほどけました。私はこれは師父の励ましで、直接真相を伝える事の第一歩である事が分かりました。妹は多くの時間を費やして一緒に真相を伝える事は出来ないので、それから私はだんだん自分で真相を伝えに出かけるようになりました。今では、何か特別な事がある時以外は、毎日、夜でも真相を伝えに行き、大晦日でも弛まず真相を伝えに行きます。いつも師父が説かれている「人を救う事は急いでしなければならない」という法を思いだすと、私は家の中にこもっていられないのです。妹には「あなたは毎日真相を伝えに行き、もう法輪が回転している。そして縁のある人たちを自分の所へ引き寄せている」と言われました。

 毎晩6時に発正念を終わらせると、私は心の中で縁のある人たちに「私は今から外へ出て行くから、あなたも外に出て下さい!」と言います。すると私が外へ出ると絶対に救うべき人に出会うのです。たまに心の中で彼らを探しに行くと言っておくと、快適さを貪る心、怠ける心もどんどん出始めましたが、やはり最後は正念が執着に勝ち、私は「もう出かけると人に言っておきながら、また行かないのなら人を騙しているのではないか? 行くんだ!」と思いました。嬉しいことに、外に出ると、師父は縁のある人を按排してくれます。これも私が外に出たからです。

 私の生活は簡単なもので、食べ物に対する好き嫌いは無く、腹を満たせる食べ物であれば何でも良いのです。朝、簡単な食事をとると、娘のために子供の世話をしてやり、午後に家へ帰ると、家事を済ませ、すぐさま学法をし、「明慧週刊」を見ます。私は学校に通っていませんが、大法の書物や「明慧週刊」およびその他の大法の資料も全て読む事ができます。午後6時の発正念を終わらせると、脱党を勧めにまた家を出ます。そして朝早く起きて煉功します。あとは時間を見つけては妹と交流しています。

 私は学校へ行っていなかったため、真相を伝えた人に大きな道理を話してあげる事ができませんでした。脱党を勧めている時、私はとても簡単な言葉で人と話します。ある人から「どの大学を卒業したの?」と聞かれた時、私が「学校には行った事がない」というと、その人は信じられないという顔をしていました。

 この何年か、私はずっと毎日家の周りで歩き回っていたので、他のたくさんの人は私を知っているのに、私は他の人を知りません。ある時、私は麦をかかえている人を見つけ、その人に向かって真相を伝えると、その人は大声で笑い始め、「あなたはもう私に脱党させたではありませんか」と言いました。こんな事はもう何回もありました。

 脱党する過程で、ある人たちは自分の名前を言うのを嫌がりますが、脱党することには賛成します。私は近くのもの、例えば道沿いの事務所とか、この通りの名前を使って脱党させていますが、もしそのようなものがなければ、妹が事前に用意していたメモ帳に書いてある名前で脱党してもらいます。

 ある時、町の通りである70歳ほどのおばあさんに出会いました。私は「福寿」という名前でおばあさんに脱党させました。おばあさんはすぐにとても嬉しそうに「私が先に福寿になってからにしましょう。私は脱党すれば長生きする」と言いました。

 2013年7月初めのある夜、その日はとても暑い日で、私はいつものように、道ばたで縁のある人を探していました。そのうち向こう側から60歳ほどのおばあさんが来るのを見ましたが、私はおばあさんと何も話さず、すれ違って通り過ぎました。その時、私は恐怖心があり「この人は邪党の幹部のように見える、彼女に脱党の事を言っても聞かないのではないか」と恐れました。しかしこの恐怖と正念の境で、私の正念が私を導きました。私はふりかえり、彼女に「おばあちゃん、私があなたに良いお話をしてあげます。あなたは脱党の事を聞いた事がありますか?」と話しかけると、彼女は「聞いたことがあります。何年か前にある人が私を脱党してくれましたよ」と言いました。私は「それなら大丈夫です」と言いました。

 彼女と話していると、私は彼女の顔だちが豊かな事に気がつきました。私は「おばあちゃん、あなたの顔だちは豊かですね。おばあちゃんはお金持ちですか?」と言うと、彼女は苦笑し、すぐに私の手をとって「さあ、行きましょう、あっちへ行って、どこか座る場所を探して、座って話しましょう」と言いました。私は彼女についていき、私たちは静かな場所をみつけて座りました。この時、彼女の顔はさっき話していた時の喜んでいる様子から、悲しい顔になっていました。おばあちゃんは涙を流しながら、自分の不幸なお話を話し始めました。

 「さっきまであなたは私の顔つきが良いと言っていましたね。私は病院からでたばかりで何日もたっていません。今日私が外に出てきた理由は外で死にたいからです。家に帰りたくありません。私は娘の家に住んでいるからです。それは彼女が買ったばかりの家で、私は新しい家を汚したくありません。何日か前に、私が家を出ると、娘は私が帰るのを待てずに外へ出て私を探し、私に抱きついて、大泣きし始めました。娘は『母さん、なんで家に帰らないの! もうこんなに夜遅いのに…』と言ったそうです。おじさんは死んでこの世を去って、私はただ一人の娘がいます。私は少しばかりの蓄えをもう娘へ渡しました…」

 私は彼女に、なぜこうなったか尋ねました。彼女は、「共産党は私の家を壊しました。私は共産党を恨み切っています。共産党はいつになったら解体するのでしょうか? 私はもう怒りのあまり毎晩寝られないのです。もともとの持病がもっとひどくなって、また他の病気にも罹り、脚は痛くて動けないし、腰も痛くて真っ直ぐにできません。理由は糖尿病があるからです。医者は私にこれも食べたらいけない、あれも食べたらいけないと言い、私は毎日お腹を空かせているのです。もう本当に死んだ方がまし。本当に生きていたくない」と言いました。

 私は彼女に「あなたをこんなにも怒らせるなんて、共産党はいったいどんな事をしたのですか?」と聞くと、彼女は泣いて涙をふきながら、「私の家は城北にあったのですが、私の家を壊して引っ越しする約束が町に認められなかったため、私が家に居ない時をねらって彼らは強引に家を取り壊したのです。私の家はとても良い家で四合院だったのです。全ての財産、衣服、かけ布団、敷布団、全ての物がいっしょに埋められてしまい、ただ私には身体に着ていた衣服だけが残りました。家はなくなりました。私とおじいさんは娘を頼りにして娘のところに来たのです。おじいさんは来てから何日も経たないうちに、怒りをこらえるあまり、死にました」と言いました。

 このおばあちゃんは「私が町の人たちにこの事を話しても、町の人たちは道理をわきまえず、私がお金を払って弁護士を頼んで告発しても、長い間返事が得られませんでした。その後、弁護士はこの件に手を付けていない事が分かりました。それからも更にたくさんのお金や物品を弁護士に送りましたが、起訴の許しは今だに得ていません。私は以前商売をしていた事があり、結構なお金を稼ぎ、日々の暮らしは良いものでした。友達や親戚で困難なことがあったら私もそれを助けました。しかし、ある親戚たちは私がお金を稼いだのを見て、ねたましく思い、私にお金を借りに来ました。借りると言うと、一気に十何万元も借りていき、今になっても返してくれません。私が弁護士を探しても、弁護士は道理を通さず、親戚に返金を求めても親戚も道理を通さず、しかも道理をわきまえないどころか、私たちが前に家を建てるために準備しておいていたレンガや、その他の物を独占しました。今はおじいさんも死んでしまいました。私も老いたし、金を稼いで自力で生活する事ができません」と言い終わると、大泣きし始めました。

 ここまで聞いて、私は彼女にすごく同情し、彼女のために悲しみました。私は彼女に大法の素晴らしさと、天が中国共産党を滅する事、及び大法を学ぶと心のよくないしこりが解けるし、煉功すると身体が良くなると教えました。私は以前、自分も病気がひどくて、今はもう治ったと教えました。この時の彼女は悲しみから喜びへと変わり、まるで枯れた木が春にまた蘇ったかのようでした。彼女は、今日あなたに会えて良かったと言い、「以前、他の人が私に退党させた時に使ったのは仮名でした。私は仮名では意味がないと思いました。今日、私は本名で脱党します。そうしてこそ効果はあります。私は共産党と徹底的に決別します」と言いました。彼女は私に家の住所を教えると、何回も、近いうちに必ず家に来て大法を教えるように念を押しました。翌日、私は約束を守り、大法の本と煉功を教えるビデオ、師父の済南法会での説法のビデオテープを持って、妹と一緒に彼女の家へ行きました。その後、私と妹はまた彼女に会い、今度はDVDプレーヤーやラジオなどの物品を贈りました。

 このようにして、絶望の道へ向かっていた人が救われました。偉大な師父は彼女のために身体を調整し、彼女は今でもずっと大法の中で修煉しています。

 今年の7月、私はある小さな工場の辺りで真相を伝えるDVDを配り、脱党を勧めていました。配り終わって、ちょうど自転車に乗ってその場から離れようとした時、後ろから来た若者に追いつかれました。そして彼は「さっき配っていた物はまだありますか」と聞きました。私は「もうありませんよ」といいました。彼は、「この何日かの間、私はもうすでにあなたをみつけていたけれど、ただしゃべる機会がありませんでした。今日やっとあなたに追いついたよ」と言いました。私はこの若者を上から下まで観察しました。彼は30歳ぐらいに見え、素朴な服の着こなしで、話し方は素直でシンプルでした。彼は「私は山東の出身で、ここで仕事をはじめてから、もう5年たった」と言い「1999年に中国共産党が法輪功を迫害し始めてから、おばさんが以前に法輪功の真相をここで伝えた時に、自分はそれを手伝った事があり、不当に半年間も牢屋に入れられた」と言いました。この時から、私は彼の所を何回か訪れました。彼は工場の中の脱党した7人の名前の一覧を私に提出しました。彼はこれからも脱党を勧めることを続け、もっとたくさんの人に脱党してもらうと言いました。

 この最近の何年かに起きた事の話で、いろいろな楽しい事に出会いました。それを書き出し、師父へ感恩の意を表します。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/1/2/302574.html)
 
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