文/中国の大法弟子
【明慧日本2015年8月1日】近頃、修煉の中にいくつか悟ったことがあるので、書き出して皆様と分かち合いたいと思います。
相手が悪いと思う時、内に向けて探せば、実は悪いのは自分だった
ある日、私が留守をしていた時に同修のAさんが来て、新唐人テレビ局の番組を見るための衛星受信機の調子が悪くて、私に見に行ってほしいと妻に言いました。帰って来た後に妻からその話を聞いて、私はとてもムカつきました。
私はずっとAさんに良い印象を持っていません。人心が多くて、精進しておらず、そのために妨害も多く、Aさんの家の衛生受信機はいつも調子が悪くて、私はもう何回も修理に行ったのですが、またかと思い、Aさんの家に衛生受信機を取り付けたことを後悔しました。考えれば考えるほどムカついて、目の前に度々Aさんの顔が浮かんで、どう見ても目に障ります。
でも突然、自分はどうしてこんなにプンプンしているのか、自分の原因を探すべきだ、と思いつきました。心を静めて考えたら、Aさんを目障りに見ているのは「私」ではなく、私の「観念」です。Aさんの行為が法理に適っていないのではなく、私の観念にそぐわないだけで、観念が私にAさんを嫌わせているのだ、と突然私は意識しました。
そこに気が付いて心がぱっと明るくなって、先ほどの目障り、プンプンした気持ち、ムカつきなどはぱっと消えました。振り返ってみると、さきほどその「観念」を自分の本当の思惟と思って、プンプンしていたのは、本当に笑いたいほど幼稚だったと思いました。
その日私は時間を作ってAさんの家に行きました。会ってAさんの顔を見たら、表情は友好的で穏やかです。Aさんは「ありがとうね、姪が受信機を直しました」と言いました。Aさんの姪は常人で、Aさんの家に泊まる時、いつも新唐人の番組を好んで見ています。
受信機の「修理」の依頼は、本当は私の人心を「修める」ために来たものです。私が自分の心を正したら、Aさんの受信機は私が触らなくても調子が良くなった、と私は悟りました。
人心を帯びない言葉は、相手に自分の不足を気付かせる
数日前、携帯電話で真相を伝えるプロジェクト、および新唐人番組衛星受信機の取付をめぐって現地の同修が交流会を開きました。私は衛星受信機を取付ける中でどのようにトラブルに遭い、どのように内に向けて探したか、それによってトラブルを解決し心性も向上した体得を話しました。自分の発言はうまく当時の困難な情況を再現したと思い、同修たちも興味津々に聞いていたのを見て、私はとても気持ち良かったのです。
それから、同修のBさんも新唐人受信機の取付けについて発言しました。「ある日、ある常人の依頼を受けて、その家に受信機を取り付ける時のことです。私は受信機を背負ってビルの外壁に取付けた梯子で7階建てのビルの屋上まで上がらないといけません。少し高所恐怖症がある私は少々緊張していました。登る途中に突然目の前が一面黒くなって、何の音も聞こえなくなり、意識も多少ぼんやりして、熱中症になったようです。私は梯子を掴んで、心の中で、「師父、この常人は新唐人番組を見ようとしています。それは彼と彼の家族が救われる機会です。私は必ず彼の家に受信機を設置します。師父、お守りください」と話しました。しばらくして熱中症の状態が消えて、私は屋上に上がって、無事に受信機を取付けました。
Bさんの話が終わって、自分とBさんの違いが見えました。妨害が入った瞬間にBさんは無私無我の心をもって、考えていたのは衆生の安否です。一方、私がさっき話したのはすべて如何に内に向けて探すか、如何に自分を向上させたか、考えていたのはすべて自分のことで、実は一種の私心にほかなりません。
Cさんは携帯電話のプロジェクトをやっています。彼は「トラブルに遭ってからはじめて内に向けて探すのでは、すでに大法の仕事に大きい損をもたらすのです。原因は、やはり普段しっかり法を勉強していないからです。普段、私は毎日『轉法輪』を暗記しているおかげで、何かに遭遇する時、最初から人心が湧きません。人心を帯びていない状態で大法の仕事をやると、問題やトラブルも出現しません」と話しました。Cさんはまた師父と大法を尊敬することについて言及しました。
Cさんの発言は、まるで私のさっきの発言を狙って反論したように聞こえて、頭上から冷水をかけられたように私は落ち込みました。さっき私が話したのは、トラブルに遭ってから内に向けて探すことができて、トラブルも解決したことで、またそれをもって光栄に思いました。Cさんの発言では、私の体得は何の価値もないようです。私はメンツがつぶれたと感じて、居ても立ってもいられなくて、Cさんに対して嫌な気分になりました。
しかしすぐに自分のそのような状態は間違っている、自分の不足を探さなければと思いました。Cさんは私の不足を見て、指摘してくれました。それは私のためにも、大法の仕事のためにもなることです。もしかして自分には本当に変えないといけない欠点があるのかもしれません。考えてみたら、学法する時に姿勢を正していない時もあり、自分もCさんのように『轉法輪』の暗記を始めたほうが良いかもしれない、と考えました。しかし心の底にやはり多少不快さが残って、やはり見つかっていない執着心があると分かりました。
続いてはDさんの発言で、Dさんは口を開いた途端に「いかなる人心も持っていないのは、つまり神の状態になったのではないでしょうか」と言いました。それを聞いて私はかえってほっとしました。Dさんの話はさっきのCさんの発言に反論していると私は感じました。しかし私はCさんの修煉状態を理解することができます。以前、私もしばらく『轉法輪』の暗記に挑んだ時期があり、確かに頭に正しくない考えが現れたときに、すぐに意識的にそれを排斥することができたのです。一言で言えば、現在の自分は、より多く学法しなければなりません。
Dさんは携帯電話のプロジェクトをしているので、よく電話で真相を伝えています。Dさんは口が達者で、頭の反応も速いのです。Dさんの話し方はうまくて、言っていることも法理に適っているので、Dさんはとても精進していると私は感じていました。
自分の問題点を探したいと、昼食後に私は協調人と少し話をしました。私は協調人に「私のさっきの発言に対して何か意見やアドバイスがありますか」と聞くと、協調人は「いいえ、とても良く話されましたよ」と答えました。それで、自分の問題点がやはり見つかっていないと私は思いました。
交流会が終わった後に、私は直接Cさんに「さっき私の発言に何か問題が存在していますか」と聞きました。彼はちょっと考えて、「特に問題というものは発見していません。ただ多くの同修には学法が足りないと感じたので、さっきそのように発言しました」と話しました。あれ、Cさんさっき私の発言に反論していたわけではないのだと私は心の中で自分に言いました。
Eさんは私の前に来て、「あなた、『中国共産党についての九つの論評』をもっと読んだほうがいいです」と言いました。「さっきの私の発言に共産党文化でも帯びていたのでしょうか」と尋ねると、彼は理由と経緯を説明し、聞いてみたら、人違いだったのです。
夕食の時、同修のFさんは突然私を「名声が高い」と褒めましたが、私は嬉しく思っておらず、そのように言われるのは、おそらく自分にはまだ名に対する執着があるからではないかと悟りました。
私のそばに座っているGさんはHさんに「今日の交流会を通して、衛星受信機の設置に関して何か改善点が見つかりましたか」と聞いてきたので、私は「私の発言を聞いたら、少し参考になるでしょう」と思いましたが、Hさんは沈黙して、一言も言いませんでした。
翌日、私はまだ交流会のことを思い出し、自分の不足を探そうとしていました。突然、自分は顕示心、歓喜心、名を求める心、自我を実証する心、虚栄心をもって体得を話したのだ、と思いつきました。昨日の交流会にも師父は何回も私にご啓示くださって、私に自分の不足に気付かせようとされました。
Cさんの「棒喝」がなければ、私は自分の不足を探そうとも思いませんでした、Dさんの発言は素晴しかったのですが、しかし事後に、Dさんが何を話したかはほとんど私は覚えていないし、その発言から自分の探すべき不足も特に発見していません。彼女はとても精進していると思いますが、発言に顕示心、歓喜心を帯びているとも感じました。Dさんを通して私は自分の顕示心、名を求める心、自我を実証したい心などが見えました。だから、聞く人たちに「とてもよく発言した、この人はとても精進している」との印象を与えることができますが(例えば、協調人は私の発言を「とても良く話されましたよ」と評価した)、しかしそれは大法ではなく、自己を実証しているため、聞く人に自分の不足を探させる力を持っていません。
師父はGさんとHさんが私の前で会話することを按排され、私にご啓示くださいました。Eさんは私に『中国共産党についての九つの論評』をもっと読んでくださいと言ったのは、表面上の原因は人違いなのですが、しかし修煉に偶然な事があるでしょうか?! 私の発言に党文化の要素、つまり「大げさに話す」ことがあることを、師父はEさんの口を借りて私に教えられたのです。確かにさっきの発言に少し誇張した部分があって、目的は自分の能力を顕示するためでした。
Fさんが私を「名声が高い」と褒めたのは、師父はFさんの口を借りて私に名を求める心があることを啓示してくださったのです。「名声が高い」とは人の状態で、もしある修煉者が人にそのような印象を与えたのならば、「相は心から生じる」ため、彼にきっと名を求める心、自我を実証する心があるのでしょう。Bさんは口べだですが、しかし歓喜心や顕示心を帯びていない、素直な言葉がかえって私に自分の不足に気付かせたのです。
自分の人心が見つかった後、心はとても穏やかになりました。夕方、出かける前に妻(同修)に自分を不足を探した経緯、自分が悟った理を少し話しました。ドアを開けて出ようとしたところで、妻はととても穏やかに、「これから、本棚の扉を閉めるのを忘れないでください」と言いました。その穏やかな口調に私はとても驚きました。普段、妻は私に注意する時にいつも非難や不満な言い方をするからです。私は「あなた、向上したのではないですか!」と言うと、妻は微笑んで「さっきのあなたの話を聞いて、私も自分の問題点に気付きました」と答えました。妻の言葉に私は涙を流すほど感動しました。
妻と一緒に暮らしてきた中で、こんな言葉を聞いたのははじめてです。私は以前いつも不満な口調で妻に「あなた、精進しなくちゃ・・・、あなた、自分をしっかり修めなくちゃ」と話しますが、毎回逆効果になるのです。しかし今日、私はただ穏やかに自分の体得を話しただけで、かえって妻に自分の不足を気付かせました。人心を帯びていない言葉は、本当に相手に自分の不足に気付かせることができるのだと師父は妻の反応を通じてまた私にご啓示下さったと思います。
きょうのことを通じて、私にもう一つ新しい収穫がありました。つまり、以前他の同修が師父のご啓示などを話した時、自分にはあまり師父のご啓示を感じたことがないな、と私はよく思いました。きょうのことを通じて、内に向けて探すことは本当にもっとも有効な方法だと痛感しました。きょう一日、数回も内に向けて探したことを通じて、師父は本当に私の知恵を開かせ私を向上させてくださったと切に感じました。
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/11/5/146707.html)