【明慧日本2015年8月3日】今年の5月から、江沢民告訴の活動は大きく進展し、阻むことのできない大きな勢いとなっています! しかし、修煉者の立場から見れば、江沢民告訴の活動の中で、鏡のように多くの執着と人心が映し出されています。
例えば、恐れる心により、率先して行動する勇気がないこと、迫害されることを心配すること、肉親の情を放棄できないこと、まず自分を守ろうとすること、極端に走ること、告訴状が届き、受理され、成功して有頂天になること、賠償について考える名利心が湧いてくること、環境がよくなったと感じて、自分を緩めること、これらのことは自分と関係がないと考えること、情勢を見比べて立ち回わり態度をはっきりさせないこと等々、これら多くの執着心や人心です。
なぜ、いつも選択を迫られた時、私達は心が動じるのでしょうか? 幾度もの洗例を経験し、激しい嵐の試練を経験してきましたが、どうして最後のこの時期になっても、人心がまた出てきて、少しでも状況が変わると、すぐに慌てふためき、心が動じるのでしょうか? 着実に修煉できておらず、このことは、私たち自身に原因があるのではありませんか? もしかすると私達が本気で法を学んでおらず、大法を本当に信じていないためではないでしょうか?
実は、はっきり言ますと、邪悪は私達の人心に向って来たのではありませんか? 世の中のすべての仮相は、すべて大法弟子の良くない人心が、招いたのではないでしょうか? 師父は以前に私達に警告されたことがあります。「巨大な神にとって、彼の一念は天体、宇宙を形成することができます」[1]。修煉者の念はそれほど巨大なもので、私達がもしも100パーセント、「江沢民は必ず大法弟子によって、法廷に立たされる」という念を堅く信じて、すぐに行動に移したなら、江沢民はすぐさま、処罰を受けるのではないでしょうか?失脚するのではありませんか? ですから、私達は絶対に「邪悪に反撃され、あるいは報復される」という考えがあってはいけません、その考えは私達の本当の考えではなく、邪悪に押し付けられたもので、私達は必ず全面的に否定しなければなりません。
周永康が審判を受ける様子を各大手メディアが報道するたび、すべての民衆が彼を軽蔑し嫌悪しているのではありませんか? かつては飛ぶ鳥を落とす勢いで、傲岸不遜(ごうがんふそんとは思いあがること)に策略を巡らせて悪事を働きましたが、現在は腐敗にまみれて非常に汚く、大勢はほぼ決まりました。まるで「大法を迫害した邪悪がすでにだめになり、大法弟子により最終的に片付けられるのを待っている」かのようです。 江沢民告訴の勢いは気力がみなぎっていて、誰もこの大きな流れを遮ることはできません。これは天意であり、これは人々に対する神による審判です。大法弟子が永遠に出逢うことのないこの機縁を逃さず、人心を取り除いて、正念をもって、邪悪を怖がらず、一致協力して悪人の頭目である江沢民を必ず法廷に立たせます。これは私達の使命です。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『各地での説法五』「2004年米国西部法会説法」