如何に、着実に修めるかを悟る
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文/ニューヨークの大法弟子

  【明慧日本2015年8月28日】師父はこう仰っています。「ここに座っている皆さんは大法を学ぶために来ているのですから、真の煉功者としての自覚を持ち、執着心を捨てなければなりません。色々な目的を追求しながら功を学び、大法を学ぼうとしても、何も身につけることは出来ません。あなたに一つの真理をお教えしましょう。絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」[1]

 これは『轉法輪』の第一講の説法の一部です。私は多くの年月を費やして、ようやくその意味が分かり、いかに法に照らし合わせ、実践の中で真に自分を修めるかを学びました。

 1999年、私が大法を修煉し始めた数カ月後に、中国共産党による大法への迫害が始まりました。私たちの個人修煉は、瞬く間に正法時期の修煉に変わりました。昼間の勤務時間以外に、毎晩、私は真相資料を準備したり、メディアと連絡を取ったり、政府高官との面談を手配したりして、様々な真相を伝える活動を行いました。全ては嵐のように激しく揺れ乱れ、ずっと続きました。

 時間が経つにつれて、私は徐々に自分の修煉において、問題が存在していることに気づきました。

 ニューヨークには多くの修煉者がいました。私たちはいつも一緒にプロジェクトを行っていましたが、いつも自分が部外者だと感じ、何かが私を彼らから隔離しているように感じていました。大法のプロジェクトについて議論を行う際、同修達は真相を伝える為に真心から、そして熱心に意見を交換し合っていましたが、私は自分が熱心さを装っていたような感じがしました。私が意見や感想を述べることは、ただ自分の考えを見せびらかし、参与していることを証明しているだけで、真心から衆生を救い、邪悪を暴露する為の発言ではありませんでした。

 2つ目の問題は、大法弟子として能動的に衆生を救うことは、私にとっては仕事のようになってしまい、やったりやらなかったりしていました。例えば、大法を実証する活動に参加する際は、大法弟子がすべきことをやりますが、その後、地下鉄に乗って帰宅する途中、私は気が緩み、ネット閲覧を楽しんでいました。その時の私は衆生を救う大法弟子ではなく、ただ一人の常人に過ぎませんでした。言い換えれば、私は常に自分が大法弟子であることを認識できず、自分の感情に流されていました。

 3つ目の問題は、長年、私はずっと学法の際に眠くならないよう、自分をコントロールしなければならなかったことです。グループ学法の際、私は立って法を読んだり、歩きながら法を読んだりしていました。

 最後に、数年来、私がずっと意識していたのは、自分には修煉者としての正念の場がないことです。私はスムーズに、様々な角度から、相手に迫害事実を説明することができます。しかし、私の言葉は滅多に相手の心を動かすことができず、彼らの頭にある邪悪な要素を、取り除くことも出来ませんでした。

 何故、私にこれらの問題が存在するのでしょうか? 修煉は過程を経なければならず、向上は徐々に得られるものだと分かっています。師父もこう仰っていました。「良くできた部分はすでに見ることができず、隔離され、皆さんが見たのは永遠に修煉がまだできていない部分です」。[2]

 しかし、私には根本的な問題があると思います。私は常にその根本的な執着を放下したくなく、甚だしきに至っては認めたくもありませんでした。しかも私は、思想の根幹からそれを厳粛に探し出し、きれいに排除していませんでした。今、考えてみれば、私の根本的な問題はどう修めるべきかが分からず、今まで真に修めることができませんでした。私はつまずきながら努力してきましたが、内に向けて探すことは形だけに留まり、真に実行していませんでした。

 4年ほど前に、私は長くて乗り越え難い試練を経験しました。ある日の夜、突然、私の体に様々な症状が現れました。呼吸困難、嘔吐、頭痛、心拍の加速などなど、時にはものが食べられず、時には眠れませんでした。その試練は数日から数週間、数カ月、そして数年続きました。情況は良くなったり、悪くなったりして、私は毎日病業と戦っていました。頭の中では恐怖や心配事が頻繁に浮かび、体と思想は旧勢力に牛耳られ、自分の意志でコントロールできなくなっていました。

 時には死ぬかも知れないと思い、時には正念を保つ能力を失ったとも感じました。

 この魔難に遭った最初の数カ月間、私は多くの時間を費やし、周辺の同修達と交流しました。しかし、時間が経つにつれて、交流回数を減らしました。何故ならば、私の状況は全く改善されない上に、これ以上同じ問題を言い続ければ、周辺の同修の妨害となるかも知れないと思ったからです。

 しかし私は一部の事をやり続け、再び精進できるよう努めました。毎晩、私は明慧の交流文章を読み、それを自分の修煉状態と比較し、どんなに辛くても、グループ学法に参加し続けました。グループ交流の中で、私は同修達の修煉のストーリーに感動の涙を流しました。彼らの衆生を救う為の正念や、修煉体験は励ましとなり、いかに修煉すべきなど、多くの知見を提供してくれました。私は体調などを無視し、続けてプロジェクトに参加し、法を実証する仕事をやり続けました。

 長い間、この魔難を解決するカギを探していました。私は更に学法や発正念に精進し、同修と一緒に法を実証する仕事をこなし、内に向けて探し始めました。

 私の最も根本的な、最も恥ずかしい問題は、自分が大法を利用しているということです。はっきり言うと、大法を自分の治療薬としていました。学法の際、私は学法後の頭脳明晰や心の静寂を追求していました。煉功の際、私は煉功後の健康や、体の軽さ、エネルギーに充満される感覚を求めていました。この世界に疲れと恐怖を覚え、大法によって解放されることを望んでいました。

 これらの考えは私の生活の各方面に浸透していて、法を実証する仕事も例外ではありません。長年、深夜まで大法の仕事をしましたが、それが衆生を救う慈悲や切望による行動ではなく、間違った基点による行動でした。時間さえ投じれば、大法から必ず良い報いがあると思いました。これは正に、旧勢力が犯した根本的な間違いではありませんか。 旧勢力が正法に参与したのは、旧勢力自身を救う為で、師父の要求を無視し、自分たちの間違った観念で物事を進めていました。実際、私も似たようなことをしていました。

 師父は仰いました。「この迫害を前に、大法弟子の中に、落ちってしまった人、ついて来れなかった人がたくさんいます。いずれも師父が行おうとすることを理解できず、人心で師父を量っているからです」[3]

 私たち全員、師父の正法に対する理解についての説法を聞きました。しかし、真にその法を理解し、自分たちの正しい念や行いに反映させたのでしょうか。 自分自身の行動を見ると、私は師が法を正すことについてよく理解していませんでした。それゆえ、私は長い間、肉体的、そして精神的魔難に陥り、行って来た多くの事は自分の為であり、法の要求に従っていませんでした。今から、私は何をどうすべきでしょうか?

 私はやっと答えを見つけました。私は必ず根本から自分を変えなければなりません。必ず自我を覆い隠している人心や執着を取り除かなければならず、それらが私の生命の中で主導的作用を働かないようにしなければなりません。以下において、その過程でのいくつかの出来事をご紹介します。

 正念の威力

 ある日の夜、私は痛みによって眠れませんでした。突然、いくつかの明確な正念が頭に浮かんできました。「私は正法時期の大法弟子で、法を正す師に手伝うために来ています。例え多くの方面において、まだよくできていなくても、この魔難の発生は認めません。この魔難に陥ることは師父のご意思ではありません」この正念が生じた途端、全ての良くない症状は消え、すぐに眠ることができました。その後の数週間、同じことが何回も起きました。そこで、私は自分の間違った観念に気づきました。今までの私は、変化は学法や煉功の際にしか現れてこなく、歩いたり、或いは他のことをする際は、何の変化も起きないと思っていました。この経験によって、私は新たな認識を得ました。それは、師父はいつでも私たちの身近にいらっしゃり、私たちが真の念さえ起こせば、必ず大きな変化が現れ、しかもそれが瞬時に現れるのです。自分を変え、法の要求に一致した時、巨大な変化が身に起き、周辺で起きるようになりました。もちろん、学法や煉功は修煉の最も基本なものです。私は学法や煉功を自分の健康維持の道具としなくなり、毎日、毎時、心から自分を変えるようとしました。

 学法の質の重要性

 認識がはっきりとしてきてから、私は自分の学法の質の悪さに気付きました。しかもそれは長年に及び、私は大法を治療薬と考えていました。そのために多くの妨害を受け、学法に集中できず、睡魔に悩まされていました。また、学法後に解放感を覚え、やっと学法という困難な任務を終えたので少し楽になってもいいと思っていました。

 師父は仰いました。「今になってもまだ、一心不乱に本を読む事のできない人がいます。特に大法の仕事をしている人は、いかなる口実をもってしても本を読まず、法を学んでいないことを隠してはならず、師父であるわたし個人のために何かをするにしても、日々、心を静めて法を学び、着実に修めるべきです。皆さんが本を読んでいるときにあれこれと考えをめぐらしていると、本の中にいる無数の佛、神、道は、あなたの可笑しくて、そして哀れな考えを見ており、思想の中の業力があなたを制御しているのに、あなたがまだ迷って悟らないのを見ているのです。仕事をしている一部の人は、長きにわたって本を読まず、法を学んでいませんが、それでどのようにして大法の仕事を正しくこなすことができるのでしょうか?無意識のうちに皆さんは多くの取り返しのつかない損失をもたらしてしまいました。教訓は皆さんをさらに成熟させるはずです。旧い邪悪な勢力に皆さんの考えの隙に乗じられないようにする唯一の方法は、しっかりと法を学ぶことです」[4]

 この問題をはっきりと認識してから、私は学法に力を入れ、多くの学法グループに参加して来ました。学法によって、私はもっとエネルギーが湧いてきて、啓発を受け、常に目覚めている状態になりました。また、毎回の学法を終えるたびに、もっともっと学法したいと思うようになりました。正しい態度で学法に臨むようになってから、私は真に質の変化を実感しました。私は「自我」が少なくなり、自然に他人を思いやり、他人と気楽に接するようになったのを感じました。私はやっと「自我」を持たずに世人と対面して真相を伝え、冷静に彼らの求めていることと観念を分析できるようになりました。

 発正念

 私のもう一つの大きな変化は発正念です。長い間、私は発正念を毎日のやるべき仕事の一つだと思い、発正念をすれば任務を完了したという感覚で、発正念の時間を逃しても大して気に留めませんでした。

 徐々に私は、発正念は師父から頂いた有意義で、不思議なプレゼントだと気づきました。師父は仰いました。「皆さんに教えますが、ここ数年来、私はいつも大法弟子に非常に大きな能力があると言っていますが、どうしても信じない人がいます。なぜならば、あなたに見えないようにしているからです。あなたの正念の作用で、周りのすべてとあなた自身まで変化が起こりますが、あなたは試してみようと思ってもいません」[5]

 この段落の法、特に最後の一句の「あなたは試してみようと思ってもいません」は私を深く震撼させました。最初にこの法を読んだとき、私は意味がよく分かりませんでした。十年以上発正念してきて、試すって何のことでしょうか。

 この段落の法を更に深く理解すると共に、今までの自分の発正念の過程を真面目に考え直してみると、私は発正念が想像以上に深い意義を持っていることに気付きました。それは私たち自身を変え、私たちの周辺環境を変え、師父が法を正す中でスムーズに物事を運ぶことができる強い力でもあります。その意義は今までの私の認識を遥かに超え、重みのあることだと気付きました。

 私は明慧編集部が発表した『発正念』を真面目に読み直しました。以前の私はその深遠な意義を理解できていないだけでなく、発正念の具体的要領も間違っていました。私は明慧の文章をプリントアウトし、繰り返し読み、間違っていた箇所を全部直し、完全に発正念を正確に理解できるまで、その文章を数週間携帯し続けました。 

 間もなく、私は自分の発正念の威力が強くなるのを実感しました。周辺環境又は自分の空間場が良くないと感じたとき、私は即座に座って発正念し、時には、自分の神の一面が様々な空間で良くない物質を正しているのを感じることができます。発正念後、周辺環境が変わり、又は自分の観念や未来に対する展望も変わったのを実感しました。正に師父が仰った通りです。「あなたの正念の作用で、周りのすべてとあなた自身まで変化が起こります」[5]

 正念をもって神韻の仕事に取り組む

 神韻の仕事を展開する中でも、私は変化を遂げました。私は他の同修と一緒に神韻のマーケティング宣伝を行っています。神韻オフィスの常人メディアと接する際の規定は厳格且つ明晰です。私たちが行おうとする全てのことはまず、神韻オフィスの許可を得なければなりません。

 去年、神韻オフィスの指導の下、私たちはある新聞社の記者と面談を行いました。面談はスムーズに行われ、その後、その記者は文章を完成しました。その文章の内容は非常に良くできているとおもいました。、しかし、その原稿が編集長に回された後、「もっと多くの研究をしたうえで文章を展開させなさい」と指示されました。それが即ち「多少のマイナスの内容が加えられている可能性がある」との意味でした。その記者は研究調査を行った後、多くの質問を私達にしてきました。しかも、過去のメディアにマイナスな報道内容が含まれていることをはっきりと意思表明して来ました。

 私は協調人と相談し、私が回答書の草案を書き、記者の大法に対する理解を手助けすることを決めました。以前の私なら自我に執着して、恐らく誰かに言われる前に回答書を書き始めていたでしょう。また、自分を問題解決の英雄だと思っていました。或いは、もしこの件がうまく解決されなければ自分の個人的名誉が損なわれるということを心配したかもしれません。しかし今回、私は自分のやり方を完全に変えました。私は草案をグループ学法の際に持っていき、同修達と一緒に討論しました。私は大声で自分の原稿を読み上げ、同修と繰り返し討論し、数回の編集を経てやっと完成させました。記者に回答書を送る際、私たちは一緒に発正念をしました。その後、グループ全員の協力の下、私たちはその記者とさらに数回の面談を重ねました。二週間後、記者の文章は掲載され、大法及び迫害事実に言及された部分の内容にはマイナスの要素がなく、非常に良くなりました。

 結び

 私の修煉における向上すべき部分はまだ沢山あります。時には怠慢になり、時にはまたも以前の状態に戻りますが、数年前と根本的に違うのは、師父と同修達を前にして、自分が部外者である感覚がなくなりました。何かを装う必要もなく、心は常に師父や大法と一緒でした。そして、衆生を救う際も真心から実行するようになりました。修煉は本当に不思議です。着実に自分を変え、宇宙の特性「真、善、忍」に同化していくのは実に不思議なことです。私は再び修煉当初の喜びを見つけました。

 最後に、師父の以下の経文をお借りして、結びにしたいと思います。「皆さん、ご存知ですか?あなたが修煉者でありさえすれば、如何なる環境、如何なる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事の為であっても、皆さんが思っているどれほど良い事や、どれほど神聖なことであっても、私はそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそが、最も重要だからです」[6] 「真にこのように向上することができるのであれば、皆さんが純粋で清らかな心の状態の下で行うことこそ、最も良いことで、最も神聖なのです」[6]

 師父に感謝し、同修に感謝します!

(二零一五年ニューヨーク法会での発言原稿)

 注:

 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」

 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「師が法を正すことを手伝うとは何か」

 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「円満成就に向かって」

 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「二十年説法」

 [6] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「再認識」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/5/25/309969.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/5/26/150769.html)
 
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