趙州橋と懐丙和尚の物語
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文/宋合

 【明慧日本2015年8月27日】著名な趙州橋は、今現在中国で残された最も古いアーチ型の橋のひとつでもあります。今日まで現存することが出来たのには、懐丙和尚が法術を用いて、趙州橋を修復したことが深く関わっている事が分かっています。これは正史に記載されていることです。

 『宋史』の記載により、北宋の懐丙和尚の知恵は、天性の才能によるもので、後天的に習得できるものではありません。

 趙州洨河の橋は、彫った石に、解けた鉄を流し込んでできたものです。それ故、とても頑丈です。唐朝から北宋の時代まで、数百年も経って、洪水の被害にあっても壊れなかったと伝えられています。年月が経ち、石橋は、芯にある鉄の盗難により、傾きました。千人の人力を使っても、橋を直すことが不可能だと推測されていました。

 懐丙和尚は職人や匠を使わず、法術を用いて傾いた橋を直して、趙州橋を元通りにしました。

 正定県では13層の仏塔が建てられました。その気勢は世に稀なほど卓越した傑作でした。歳月を経て、仏塔の中央の柱が壊れ、塔が西北へ傾き掛けていましたが、修繕できる職人がいませんでした。懐丙和尚は柱の長さを測り、新たに代用の柱を作り、その柱を塔の内部に立たせるように職人たちに命じました。そして、職人たちを塔の外に出し、塔の扉を閉め、自分は塔の中で柱を取り替えました。斧等を使った音がしませんでした。(懐丙和尚はなぜ斧を使わずに、大きい柱を取り替えることに成功したのでしょうか。修煉界の人なら彼が功能を用いたことを知っています。職人たちを外に出した理由は、法術は公で見せびらかすことが出来ないからです。)

 河中府(今の山西省永済県蒲州鎮)に浮き橋があります、八頭の鉄でできた牛に繋いで固定した橋です。鉄の牛は一頭当たりおよそ何万斤(一斤・いっきんは約600グラム)の重さがあります。洪水の氾濫で浮き橋が流され、鉄の牛も河の底に沈没してしまいました。懐丙和尚は土を満載したニ艘の大きな船を使って、鉄の牛を引っ掛けました。そして、船の中の土を徐々に外へ出すにつれ、鉄の牛は舟の浮上と共に浮き上がり、水面に顔を出しました。懐丙和尚は人にたいへん良いことを行い、浮き橋を元通りに直したため、皇帝から褒賞を受けました。

資料出所:『宋史 巻四百六十二 第二百二十一列伝 方技下』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/8/12/313933.html)
 
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