文/日本の大法弟子
【明慧日本2020年7月11日】
1、私と陳文睿の短い交流
5月7日午後、私は真相資料を受け取るために同修の家を訪ねました。そこに泊まっていた陳文睿はちょうど同修たちといわゆる交流をしていました。相前後してその日に計4人の同修が来ました。
陳は天目が開いたと自称し、8年間修煉したある同修を「まるで20年も修煉したようです」と褒め、50代、60代の同修数人を「まるで30代にしか見えません」と褒めました。自分はイタリアに留学して未来の人類のために衣裳をデザインするように師父からご啓示を受けたと言い、また、日本全体の修煉に問題があり、自分は師父のご啓示を受けて日本に来て、「一脈が百脈を率いる」ように、みんなを高い次元へ連れていく云々と話しました。これらは中国共産党のスパイが使い慣れた話術ですが、在席の同修らは少しも疑わずに、しかもとても喜んで聞き入れたのです。
皆さんのこのような正しくない修煉状態に内心で驚きましたが、陳とは初対面なので、私はその場で彼女の発言が大法に符合しないことで、かつ事実無根だと指摘しませんでした。
陳は南京出身で、世界各国の多くの同修を知っていると言っています。しかし、去年トランプ大統領に接見した南京出身の張玉華さん、および夫の馬振宇さんのことを提起したら、陳は「知らない」と言いました。自分は10年前に出国して、国内にいた頃はまだ若くて、いろいろなことを知らないと陳は説明しました。ちょっと納得できない私は話題を変えて、修煉してから経験した奇跡を語り、自ら撮った、法輪を映した写真とビデオをみんなに見せてからその場を去りました。
それから、事はますます大きくなり、私自らの許可なく3回も陳と追随者のSNSに勝手に追加されました。最後に私は「ここは強制洗脳ができる共産党の中国ではない。もう一度追加されたら、私は警察に通報する」と言って、やっと彼らは私をSNSから退会させました。同時に私、および彼らの行為に反対する学習者たちの発言がSNSから削除されました。
その期間中に、私は親しい仲の同修と携帯電話を使って交流をしました。今回の陳文睿事件の本質は、執着心が強い中国国内(陳宇雷)と国外(陳文睿)の学習者が、旧勢力に利用されて、内外で呼応して日本の修煉環境を破壊しに来たもので、日本の修煉者がその中に巻き込まれた原因は人心が重いからだ、という話題をする時、携帯電話の調子がよく悪くなります。通話が切れたり、録画機能が突然使えなくなったり、送ったメッセージが相手に届かないなどの情況が時々発生しました。
今に至って、陳と彼女に惑わされた追随者らは、明慧編集部の文章が公表された後でも、各大法のプロジェクトに除外されても活動を収めることなく、引き続き妖言を弄して、明慧ネットからの指摘を無視して、自分たちの間違いを冷静に考えていません。
2018年の神韻公演に「烏鶏国の偽国王」という演目がありました。烏鶏国は干ばつに見舞われて、国王はお香を立てて祈祷を捧げました。ある日、一人の道士が現れ、終南山から来て、道術を持っているから雨乞いができると自称しました。彼は壇に登って法術を使って、本当に大雨を降らせました。国王は感謝して彼と兄弟のように親しくなりましたが、道士は国王を井戸に突き落として、自分が国王の容貌に化けて、王座に就きました。王妃、王子、大臣らはみんな気づきませんでした。
3年後、三蔵法師の一行が取経の旅の途中で烏鶏国に足を踏み入れます。その時、国王はすでに井戸の中に3年も漬かっていました。国王の魂は三蔵法師に助けを求め、孫悟空は太上老君から死人を蘇らせる薬を乞い、国王を生き返らせました。師弟4人が妖怪を降参させた後に、烏鶏国の国王は再び玉座に就きました。
日本の一部の学習者は烏鶏国の国王に似ていませんか。魔難に遭った時に内に向けて探さずに、功能や天目に執着し妖言を信じて、自ら災いを招いてしまいました。
2、事件に巻き込まれた人の責任
明慧編集部が6月21日に発表した「講演して法を乱す行為は歴史の教訓である」の言葉遣いはとても厳粛なものです。当初、日本佛学会の対応は少し無謀ではないかと思いもしましたが、今になって考えると、それは孫悟空が妖怪を退治することと同じように、とても必要な措置だったと思います。
師父はすべての衆生を救い済度されます。明慧編集部は厳しい口調の文章を発表しましたが、陳を追い出す意味ではなく、彼女に修煉の機会をまだ与えています。しかし陳は肺炎のパンデミックのために日本に短期滞在しているのに、文章を書く時に「日本の大法弟子」と自称して、引き続き周囲を惑わしています。
明慧編集部の6月21日の文章は「私達は善意で互いに注意を促し、再び邪悪なものに乗じられる場を与えないように希望します」と、今回の事件の背後に「邪悪なもの」が操っていることを明確に指摘しました。このタイミングで日本の学習者に注意喚起をするのは、大法に慈悲と威厳が共に存在することの現れだと思います。
明慧編集部が2013年に発表した「講演は法を乱す行為」は「よく知らない人を同修の家や資料点に連れて行ってはなりません」と述べています。これは主に中国本土の険しい情況に対して言ったのですが、海外の環境においても参考になると思います。
法を正す修煉は最後の重要な節目に差しかかり、能力があり大法プロジェクトで重要な仕事を担当する修煉者は、なおさら邪悪に攻撃の対象にされると思います。佛学会とアジア天国楽団が下した処分は、処分の対象を大切に思った上で出された決定だと思います。もし当事者が冷静になって感謝の気持ちを抱いて名、利、情を放下できれば、もっと多くの時間を「三つのこと」にかけるはずだと思います。
長い間、修煉の看板を掲げていても着実に修めていない学習者がいて、中共のスパイになる人もいます。彼らは実は師父と大法を信じていないのに、うわべではとても積極的に活動をしています。彼らは正真正銘の大法弟子からの寛容と慈悲に感銘して、時には本当に修煉をしたいと思ったりもしますが、名、利、情の試練を試される時、すぐに修煉の意志を失うのです。真の法輪功修煉者は天国世界に戻ることを目指していて、俗世間の権力などを求めないのに対して、彼らは天国世界を実は信じていません。圓満成就することを理解できず、俗世間の栄耀栄華を享受することこそ、人生の目的だと彼らは思っています。師父はずっと彼らに機会を与えておられますが、しかし機会はもう少なくなっています。
修煉者として病気の関に遭う時は、実は人心を取り除き、体を浄化し、功を伸ばし、次元を高める良い機会なのですが、もし当事者が悟らず執着心に固執して、「何を使っても構わない、病気さえ治してくれれば良いのだ」と思えば、すぐ常人のレベルに落ちて、今回の向上の機会も失います。
「不二法門」の過ちを犯すと、法輪は変形してしまいます。法輪は回収されても当事者はこれを知りません。師父が植え付けてくださった法輪を失ったら、本人が大法弟子と自称しても、実はすでに常人になっています。今まで大法関連の仕事をたくさん行なった分は俗世間の福に変わることができますが、修煉とは、今後何の関係もなくなります。修煉の機縁を逃したら、天上の神々を失望させて、自分にも尽きることのない後悔を残します。誓約を破棄して重大な使命に背く結末は、惨いものです。
修煉するには寂しさに耐えなければなりません。損をし、苦しみに耐え、不当な扱いを受けることは、すべて修煉です。集まって食べたり遊んだり、喋ったり笑ったりすることで修煉は圓満成就できるのですか、修煉はそんなに容易な事でしょうか?! ある者のために弁護することを、大法を守るための「4.25」事件に例えるのは、「自分の心より魔が生じること」としか言えません。大法をどこに位置づけたのでしょうか。
我々はまだ修煉途中の人で、各種の執着心をまだ持っており、ただ修煉によって執着心を弱めています。修煉者はまた迷いの中で修煉して、出会った人や事に対して正しく認識し判断するには、長かれ短かれ時間がかかります。ただし、法を正す進展は最後の瀬戸際まで差しかかり、残された時間はとても緊迫しているので、今回の騒ぎに関して、認識するには速いほうが良いと思います。「宇宙では業力の多い者こそ悪者であると定められており」[1]と師父はおっしゃいました。
三蔵法師は八十一回の難を経験してやっと真経を取経でき、今日の大法修煉者も関や難を一つずつ乗り越えて、次元を一つずつ突破しているのです。三蔵法師一行の4人は妖怪の前での振る舞いもそれぞれ異なります。三蔵法師は妖怪に情けをかけて、妖怪を寛大に許し、かえって悪を助長することになり、猪八戒は色欲心をなかなか除去できず、美女に変化したクモに誘惑され、沙悟浄はひたすら仕事に没頭し妖怪を分別できません。今日の修煉者の振る舞いは、彼らに似ていませんか。迷いから抜け出られるように私たちを導くのは、師父しかおられず、大法しかありません。
個人の修煉上の挫折は、全体の修煉環境まで害することもあります。皆さん、意気消沈せずに元気を出しましょう。最後の時間を大切にして、ともに精進して「三つのこと」をしっかり行ないましょう。最後まで修煉を続けて、師父について天国の家に帰るのは、私たちにとってこの上ない幸運と栄耀です。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』