文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年1月17日】数日前、動態ネットである文章を読みました。「ある年配の同修は修煉して数年後、突然連れ合いに修煉をやめたいと言った。結局、この人は尿毒症になり亡くなった」という内容でした。
大法修煉は自由で、するかしないかは自分の意思次第だと分かってはいますが、やはりとても残念に思いました。私達はすでに最も暗黒な時代を乗り越え、大法の全盛期が間もなく到来し、私達の前途はますます明るくなるこの時に、どうして修煉を諦めてしまったのか、とても理解できませんでした。
唐の三蔵法師は天竺に取経(※1 )に行った時、81回もの苦難を一つも欠かさず乗り越えなければなりませんでした。妖怪に会っても、美女に会っても、弟子に逃げられても、道がなくなっても、火焔山(かえんざん)や底なしの穴、通天河(つうてんが)、女人国……に出遭っても、三蔵法師は揺るぎない意志でしっかり対応し、結局、すべて「柳暗花明又一村」のように、眼前に新たな世界が開けました。
現れた妖怪はすべて偶然ではありませんでした。中には観音菩薩が借りてきた妖怪もいました。例えば、三蔵法師と弟子たちが平頂山で出会った金角大王と銀角大王は観音菩薩が太上老君から借りて来た2人の童子でした。魔難は修煉者が上り詰めなければならない階段です。「天地は炉で万物は銅」という詩があるように、世の中のすべての魔難は修煉者にとって、八卦炉の燃料に過ぎず、強い火の中でこそ純金であるかどうかが分かるのです。
外部から来た魔難、例えば、中国共産党による迫害、様々な誹謗中傷、世間の誤解などは、比較的に認識しやすく、対応しやすいのです。なぜなら、修煉は他人を修めるのではなく、自分自身を修めるもので、他人が何を考えているかは自分と関係がないからです。しかし、自分自身から来る魔難は少し複雑です。特に心から魔が生じる場合、自分は本当に何が欲しいのか?、自分の真の考えとは何なのか? 誰が孫悟空なのか? 誰が六耳獼猴(※2)なのか? 時には、本当に区別がつきません。しかし、師父は経文の中で法理をはっきりと述べられているので、筆者の経験としては、法を多く学べばすべての問題を解決できると思います。
修煉の中で何度も上述したような問題に出会いました。時には、大法は本物なのかどうか(娘も会ったことがある)と疑い、またある時は、とても怖い光景が見えて、同時に「邪法を修めているのではないか?」と、ある声が絶え間なく聞こえたのは、これらすべて六耳獼猴からの妨害でした。裏切りの心が表れたら、法をしっかり学べば問題ないのですが、その光景や惑いを信じてしまえば、それは大変なことになります。
筆者は若い頃から修煉をしたくて、ずっと師父を待ち望んでおり、自分はきっと出家するだろうと思い、法を求める辛さをよく味わいました。しかし、初めて大法に出会った時、私は真偽を見分けることができず、大法とすれ違ってしまい、数年後にやっと大法修煉に入りました。大法を誤解するすべての人は中国共産党の誹謗中傷を信じているのです。中国共産党が毎日嘘を言っており、それはその本性ですから、必ず自ら真相を探さなければなりません。なぜなら、二十数年、修煉した学習者でも、自分が分かり切ったとは言えないからです。
2000年前、キリスト教がローマ帝国に迫害され、イエスが十字架に磔にされて亡くなった後、信徒たちは生死を恐れず、信仰を堅持し、迫害に反対しました。300年後、キリスト教はようやく世間に認められました。迫害に反対する過程の中で、悪魔と取引をする信徒もいれば、信仰を裏切り、神を裏切る者もいました。もちろん、シモン・ペテロ、パウロのように、大きく成就した人もいました。すべてのクリスチャンは同じ『聖書』を学んでいるのに、どうして結果が異なり、成就したものが異なり、理解が異なったのでしょうか? 筆者の考えでは、それは「師は入口まで導くが、修行は各自にあり」 [1] ではないかと思いました。
(※1 ) 取経(しゅけい:お経を取りに行くこと)
(※2) 六耳獼猴(ろくじびこう :何にでも変化することが可能な、六個の耳を持つ化け猿)
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』