「師と法を信じる」ことについて考えてみる
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2020年1月5日】同修達が一緒に交流する時、私達はよく「師と法を信じる」、「師父の要求通りに行なう」等とよく言っていますが、「師と法を信じることは、単なる立派な言葉だけではなく、それには基準がある」という事を私達は真剣に考えたことがあるでしょうか?

 師父は「本当に信じるとは何でしょうか? あなたは口先だけで信じると言って、実は心の中では信じていません。それはなぜですか? 本当に信じていれば、あなたの言行は必ず一致しなければなりません」[1] と説かれました。

 個人的な理解では、もし言っている事がやっている事と一致していなければ、それは本当に信じているとは言えません。もし、言行不一致であれば、それはただ事ではなく、それは師と法に対して無責任であり、同時に、自分に対しても無責任なことなのです。師父は「学習者として、師父の要求に従って行なっていなければ、これは小さい問題ではないはずです。旧勢力はすべての大法弟子に対してそれらのものを按排しました。もし大法弟子が師父の要求に従って行なっていなければ、きっと旧勢力の按排に従って行なってしまったことになります」[2] と説かれました。もし旧勢力の按排に従って行なってしまうと、私達はどうやって修め、どうやって法を正す師に手伝い どうやって誓約を果たし、どうやって使命と責任をやり遂げるのでしょうか? それはどう言う結果になるのでしょうか?

 三つのことをしっかり行なうことだけを見ても、私が接している同修の中に、一部の人は真相を伝え、衆生を救う事をほとんどやっていないように見受けられます。たとえやっていたとしても、それを重視しておらず、1カ月に7、8人、あるいは4、5人しか三退をさせていません。人を救う事をやらなければ、師父は大法弟子として認めてくださらないでしょう。そうなれば、すべてはゼロに等しく、圓満成就になれません。圓満成就になれなければ、「通常、交わした誓約通りになります」[3] と師父は仰いました。私達がいったい何になりたいのか、しっかり考えなければなりません。

 この問題を取り上げたのは、誰かを非難するつもりはなく、単なる交流を図ろうとしているだけです。大法修煉は厳粛なものです。同修の皆さんに、「くれぐれもこの千載一遇の機縁を大切にてほしい」と注意を呼びかけたいと思います。師父の法を正す時期が終わらないうちに、真に「師と法を信じる」ことをやり遂げる機会はまだあります。このあっという間に過ぎ去ってしまう時間の中で、真剣に、着実に、一心不乱に、少しも妥協せずに、師父の要求通りに「三つのこと」をしっかり行ない、最大な努力を尽くし、私達が担当する無量の衆生を救い、誓約を果たし、使命をやり遂げましょう!!

 法に則っていない所があれば、同修に慈悲なるご叱正を宜しくお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会での説法』
 [2] 李洪志師父の
著作:『精進要旨三』「考えをはっきりせよ」
 [3] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2019/12/27/397557.html)
 
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