一心不乱に法を学んで 初めて法が得られる
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文/中国の大法弟子 

 【明慧日本2019年12月10日】同じIQを持っている2人は同じ先生の指導の下で、同じ囲碁を習いました。しかし、2人の腕前は雲泥の差があるようになったのは、なぜでしょうか? それは身を入れる度合が違うからです。一心不乱に打ち込む人は腕が上がり、集中できず、心が乱れる人は芸がおろそかになってしまいます。

 古代、孟子はこのような物語を話しました。「国の中でもっとも囲碁のうまい弈秋(えきしゅう)は、同時に2人の弟子に囲碁を教えました。1人の弟子はとても身を入れて、先生の講義を必死に聞きました。もう1人の弟子も講義を聞いていますが、頭の中には白鳥が飛んで来たら、弓でそれを狩りたいとばかり考えていました。2人は同じように囲碁を習っていますが、1人は腕がどうしても上がりません。彼は頭が悪いのでしょうか? もちろん、そうではありません。

 近代、ある電信会社はモールス信号が分かる通信士を採用しようとしました。大勢の応募者が来ました。彼らはある喧(やかま)しい作業室に連れ行かれ、その作業室はタッタッタッタッと数種類の信号の音が鳴りっぱなしでした。応募者はますます多くなりました。ある若者は作業室に入ってしばらくしたら、そこを出て行き面接室に入り、そして採用されました。面接官は他の応募者に、「作業室の喧しい音の中にモールス信号が混ざっていましたが、それは絶え間なく『この信号を聞き取れた人は、直接面接室に入りなさい』と送り続けられていました。皆さんはモールス信号が分かるかもしれませんが、残念ながら、これを聞き取れませんでした」と言いました。

 信号を聞き取るには心を静め、一心不乱になって、様々な妨害を排除しなければなりません。人間が電報を打つための信号と宇宙の特性の信号は、どちらが奥深く、どちらが複雑で、どちらが難しいか、それは同列に論じることが出来ません。騒がしい作業室の中で心を静めて集中しなければ、モールス信号を聞き取れないとするならば、この入り乱れて混乱している人間社会では、一心不乱に法を学ばなければ、どうして法を得ることができるでしょうか?!

 一部の同修はずっと法を学ぶ効果がよくないと言っていますが、それなら、私達は「集中して、一心不乱に法を学んでいるかどうか」と自問をすべきではないでしょうか?! もし、法を学ぶ時、携帯電話を見たり、買い物の事を考えたり、雑談したり、うとうとしたりしていたら、どうして宇宙特性の信号を受信することが出来るでしょうか?!

 法を学ぶ時、携帯電話の電源を切り、パソコンをシャットダウンし、机の上に大法の書籍以外のものを置かず、他をすべて排除し、環境をきれいにしていれば、精神が集中しやすくなります。一段落を読んで、要領を得ていなければ、もう一度読み直し、表面の意味をしっかり分かるまで読まなければなりません。表面の意味を分かっていないという事は、心ここにあらずと言うことです。

 そして、時間を大切にして法を暗唱しましょう。法を頭に多く入れるほど、心がきれいになります。集中力も高まります。法を暗唱することは定力の現れです。根気よく法を暗唱し続けていけば、それは向上につながります。

 師父は「法の勉強がついてくることができなければ、すべておしまいなのです」[1] と説かれました。私の理解では、大法弟子は必ず心を静め、集中して法を学び、法の指導の下で自分の執着と観念を取り除かなければなりません。そうしなければ、私達はしっかりと修めることが出来ず、法を正す師に手伝うことが出来ません。その結果、恐らく努力しても、旧勢力の按排から離脱できず、苦労をしたが効果がないという事になりかねません。

 愚見です。適切ではない所を慈悲なるご叱正を宜しくお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2019/11/17/395904.html)
 
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