情と慈悲について
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文/大陸の大法弟子

明慧日本2015年12月7日】

 修煉する前は、不意に「慈悲」という二文字を聞いた時、その含意については知りませんでしたが、暖かさを感じました。「大きな愛、この上ない思いやり」という文字通りの意味として受け取りましたが、具体的に何を指しているかについてはまだわかりませんでした。修煉して、情と慈悲についての説法を聞くと師父はこのように説かれました。「この情を断ち切らなければ、修煉することはできません。情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです」【注1】その時はこの部分についてまだ理解できず、なぜ情から抜け出してこそ慈悲の心が生まれるのか、慈悲と情の含意に一体どのような区別があるのか、などといった疑問を抱いていました。

 それから、修煉と悟りを重ねることにより情と慈悲の含意の違いを、自分のいる次元での表れにより悟ったことがあります。情は自分のためであり、条件を必要とします。しかし永遠に保つことはできません。情にも正と負があり、喜怒哀楽が情の表れなのです。そして、情には不穏性があり、感性的で常に変化しそれを操ることも把握することもできません。情を構成している本質は三界の物であり、低次元のものです。しかしながら、慈悲は違います。慈悲は無私無我であり、条件が存在しません。そして永久性があり、表現形式としてはいつまでも平和と理性を象徴しています。

 10年以上の修煉の中で情による危険性をゆっくりなくし、慈悲の心を修めるまでの過程は極めて緩慢なものでした。修煉のまとめとしてだけでなく、同時に更なる精進をする鞭撻としてもここに書き出したいと思います。そして、最期に残された限りのある時間の中で、名誉、利益、情を徹底的になくし、大いなる慈悲の心を修めていこうと思います。また、多くの衆生を救済し、自分の誓約を果すつもりです。

 一、情に執着することは苦痛を選択したことに等しい

 修煉して1年も満たない時、人生初の感情での挫折を体験しました。失恋です。深い仲だった彼が突然私の元から去ったことに驚きながらも、これらすべてが現実なのか、それと夢なのかと迷っていました。しかしながら、当時はすでに修煉していたので、これは修煉の中で突破しなければならない情による難関であることは理解していました。ですので、それからは毎日のように昼間は時間が許す限り法を勉強し、自分の心を修め、精進に励みました。夜は煉功拠点に行き、集団の学法と煉功に参加しました。しかし、それでも、眠れない夜は、彼と付き合ってきた数々の光景がまるで映画のように目の前に現れ、振り払おうとしても消えませんでした。これにより、苦痛が押し寄せてきて知らぬ間に涙が枕を濡らしていました。心の中で「情とは一体何でしょうか。この世にまだ信頼できる人はいるのでしょうか」と同じ質問を何度も繰り返しました。当時は、自分は修煉しているから情や苦痛など、すべてから遠ざかることができると、心のどこかではわかっていました。しかし、実際にそれを行動に移すのは口で言うような容易なことではありません。

 そして、師父の『真修』を暗唱することが毎日の課題となりました。心身共に法の中に溶け込んだときのみ、苦痛を感じなくて済むのです。もし、法の導きがなければ、私はこの難関を乗り越えることはできなかったでしょう。

 それから、今の夫と出会い、結婚して子供を産みました。夫は私をとても大事にしてくれました。子供も大切に育て、家族の事も大切にしてくれていました。内心で「やっと信頼できる人に会えた」と喜びました。誠意をもって夫と暮らそうと決めました。

 しかしながら、2004年のある日、不意に夫のパソコンを開いた時、前の彼女とのチャットを見つけてしまいました。夫が彼女と浮気していることに気づき、瞬時に心が冷めました。その後、夫にこのことを話すと、二度としないと約束してくれましたが、陰では私に隠れて彼女と連絡を取っていたのです。夫は何度も約束してくれましたが、それを守ったことは一度もなく、それどころか、彼女とは会話しただけで、自分に非はないと言ってきたのです。それからは夫への信頼が完全に消えて、2人もの男性に裏切られたと自分を不幸に思い始めました。この結婚生活を終わらせたいのですが、自分は修煉者であり、これは情による難関ではないでしょうか。もしかすると、以前に乗り越えられなかった難関があったから、師父が同じものをもう一度用意してくださったのかもしれません。

 人心が度々浮かび上がり、苦痛だけではなく心も冷めていき、男女の情にはもう二度と触れたくないと思いました。当時の自分はひたすら孤独感に襲われ、まるで自分が孤児のようで、この苦痛と孤独をわかってくれる人はいないと感じていました。かつて仏教物語の中で、マハーカッサパとその妻であるバドラー・カピラーニの修煉物語がありました。2人は夫婦でありながらも共に精進し、そして、修行を重ねていき、やがて阿羅漢となり円満成就したというのに、私には心の通じ合う夫すら見つかりません。長い間、この情から抜け出すことができず、気持ちが沈んだままでした。この状態は良くないと分かってはいるもののなかなか乗り越えることができませんでした。『洪吟二』の「梅」の中の「連日の雪雨は神仏の涙、待ち望む梅の帰るを」をよく暗唱し、慰められました。例え世間に見捨てられても、私にはまだ神様や佛様がいます。彼らは涙を流し、私の帰りを待ってくれているのです。そして、師父の法身が常にそばにいるので、少しも寂しくありません。この一念が私を支え、あの辛かった日々を乗り越えることができました。 

 二、情をなくしてこそ慈悲が生まれる

 以上の経験を通して情に傷つけられた痛みを知りました。そしてこの世間のすべての人間がたよりにならず、人間に誠の心がないと感じました。嘘をつかなければ「真」であり、「真」が最も修めやすく、「善」と「忍」が難しいと思っていましたが、今では、「真」になるのも難しく感じます。「真」は雑念がなく純粋を意味し、また外界に左右されない揺らぎない心という意味も含まれていると思います。常人がなぜ誓いを守れないのでしょうか。それは、言葉を遊びだと思い、「真」になれないからです。そこでこの法理を下に自分を見ると、不安を感じ始めました。常人の道徳基準を自分に重ねてみれば、恥じることなど何もしていませんが、法の要求で自分を見返すと次から次へと疑問が湧き出てきました。自分が口にした一言が正しいと勝手に思い込んでいましたが、その中には雑念や利己心がないと言い切れたのでしょうか。100パーセント他人のためだったのでしょうか。常人と接し、衆生を救済する中で、自分が発した一念を最後まで守りきることができたのでしょうか。有史以前、師父に誓った誓約を100パーセント果たしたのでしょうか。

 内に向けて探すことで、自分は「真」になれていないことに気づきました。根本を探せば、やはり「情」の仕業であり、常人の「情」には「真」がないため、「情」は変化しやすいのです。古くから、「情」は無数の悲恋や恋のために理性を失った男女を作り上げてきましたが、「情」を見抜ける者は1人もいませんでした。そして、私が傷いたのも自分がまだ「情」に浸っていたからであり、それに支配され、束縛されていました。喜怒哀楽は執着心であり、利己心でもありました。これらを取り除かない限り、宇宙の「真、善、忍」の法理に同化することなどできるはずがありませんでした。

 この理を悟ってから、「情」から抜け出すという師父の教えを理解することができました。すると、夫を見る目線も変わりました。夫も衆生のうちの一人であり、三界の変異した情の物質によって支配されていました。そして、自分が傷つく原因は夫婦の情に対する執着心からであると分かりました。一線を越えたようなことや過ちを起こしたこともありませんが、修煉の角度から見れば、自分も夫と同じ次元にいて、同じく常人の情の中にいるので、お互い対立したのです。もし、私が情の中にいなければ、心が揺らぐこともなくなり、傷つけられることもありませんでした。却って憐れみを持って夫を救済したでしょう。これは私自身が慈悲に対する悟りでした。そして、私の修煉には反対せず、脱退もした夫に改めて真相を伝え、男女の情に対する大法の要求や、色欲が人に与える被害について詳しく話しました。そして、今日の社会の道徳基準が下がっていることも、それに流されてはいけないこと、大法の教え通りに自分自身を要求することで無事に毎日を過ごせることなども話しました。夫に大法の書籍を渡し、この方面について他の同修の修煉体験を教えました。すると、時間が経つにつれ、夫は大法を認め、今や大法弟子の一人となったのでした。

 三、報いを求めないことで包容力が広がる

 修煉の次元が高まるにつれて、夫婦の情が消えつつあり、それと比例して慈悲の心が拡大していき、夫との仲も睦まじくなりました。これらから「利己心を取り除き、情から抜け出せたからこそ慈悲が生まれる」という法理に気づきました。

 しかし、他人と接触するとき、未だ心性の難関が立ちはだかっていました。そして、私はあることを悟りました。一個人ではなくすべての衆生に本当の慈悲を持って接することができてこそ、自身の修煉を持って法を正すことができ、衆生を救済することができたのです。

 心性が異なり、様々な人間が周りにいました。優しくて穏やかな人もいれば、厳しくて口から出た言葉が人を傷つける人もいました。調子に乗り、目上の人に失礼な人もいれば、他人にぺこぺこと頭を下げて媚びへつらう人もいました。そのほかに、人当たりのいい八方美人もいました。これらの人間は同僚や友達、親戚など、身近なところにいました。長い間付き合ってきたことで、気づかないうちに彼らを以上のように分類していました。個人的には第一部類の人たちを好み、彼らにだけ真相を伝えました。ほかの人間に関しては部外者と見做し、特別な状況でない限り、見向きもしませんでした。ばったり出会った時は礼儀をもって接しましたが、心の中では軽蔑し、背後であれこれと愚痴をこぼしていました。そして、このような自分が正しく、負の要素に心を動かされないで泥より出ずるも染まらずにいられると思い込んでいました。

 しかし、現実での難関はこれでなくなるというわけではありませんでした。かつて師父は、「相は心から生じる」といった法理を説かれたことがありました。自分自身の良くない時空に素晴らしいものを招き入れることができたでしょうか。実際、私自身も他人からの誹謗中傷のために言い訳や弁解をし、精神的、行動的、そして、物質的に費やしてきたことが報われないことに苛立って仕方がありませんでした。

 師父は『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』の中でこのように説かれました。「あなたにその心があれば、心が動じるのです。その心がなければ、風が通り過ぎたかのように、何も感じません。あなたが殺人、放火しようとしていると言われたら、それを聞いて面白いと思い、(師父が笑って)ありえないことだと一笑に付します。まったく気にしません。なぜなら、あなたにその心がないから、この話に刺激されることがありません。その心がなければ、あなたを刺激することができません。心が動じれば、あなたにその心があることを物語っています!心の中で本当に不平を感じていれば、この心が小さくないということです。(拍手)それなら、修めるべきではありませんか?」

 この段落の説法を見て、叩き起こされたかのように、底深くに隠された執着心を瞬時に見つけだしました。名誉を求める心理や、利益を求める心理、何かをしたら相手に感謝され、報われたい心理、自分の要求に合わなければその人を嫌い、心の底から軽蔑する心理など、これは「善」ではありませんでした。これは偽りであり、駆け引きだったのです。

 また、師父はこのように説かれました。「慈悲をもって全ての人に対処すべきであり、如何なる問題に遭遇しても自分の原因を探すべきです。人に罵られ、殴られたとしても、自分を探し、自分のどこかが良くなかったから引き起こされたのではないかと見るべきです。これはトラブルの根本的な原因を見つけることができ、私心のため自我のためという執着を取り除く最も良い方法でもあります。あなたの敵を含む個人修煉の中の全ての人を許すまで心を広くすべきです。なぜならば、あなたが言っている敵は人間が判断している敵であり、利益のために人間が判断したものであり、神の行為ではありません。ですから、要求もかなり厳しいのです。神はどうして人間を敵にするの でしょうか?」【注3】

 幸運にも法を修煉し、佛恩を受けていることに幸福感を感じていました。しかし、頭を下げて相手を受け入れ、慈悲をもってまわりの人間の全てを受け入れるなどと考えたことは一度もなく、ただ高次元の生命に自分を受け入れてもらおうとしていたのでした。師父の慈悲は宇宙のすべての生命を包容し、受け入れており、自分はその宇宙の一員になりたくて、その温かみを感じたいだけであり、自分の世界の次元の違う衆生を包容しようとはしませんでした。心に手を当てて自分に問いかけてみて、私は彼らの主となる資格があったのでしょうか。主としての包容力はなく、利己心や嫉妬心などが慈悲の境地に至るのを妨げていました。

 「修煉者の思想、身体の容量、体積はすべて大きくなります。そのため、站樁をするときに自分がとても大きくなったと感じることがあるのです。また、とても小さくなったと感じる人もいます。良く修煉できた他の空間の身体は大きくなったり小さくなったりできるからです。修煉者の身体は確かに大きくなります。さもなければ、高い次元での宇宙の真相に対する認識に耐えられないからです。修煉の中で身体は一つの空間を突破するたびに大きくなります。私のここに座っている肉身はあなたたちが見ているこの大きさですが、私のあちらの身体は一つ一つ徐々に大きくなります。その大きさは、この中にいる天目が一番良く開いている人でも私の足の指の背面は見ることができず、底面しか見えないほどです。これはまだ一番大きいのではありません。もちろん、これは誇示しているのではありません。師と弟子の間ではいい加減なことは話しません。皆さんに教えますが、修煉者の身体は確かに体積が大きくなっています。インドのヨガの一枚の絵画を覚えていますが、その絵画には、博伽梵が彼の弟子に対して、『見てください。全ての神は私の身体の中にいる』といっている場面が描かれています。絵画の中の衆神はみな彼の身体の中にいます。修煉ですから、目的は神になることです。神の大小は次元の大小であり、果位の高低であり、それによって神の身体が果位の次元に符合するのです」【注4】と師父は説かれました。

 この法を勉強することで、修煉者の思想や身体的な容量が増加するのは、心の包容力が拡大したからです。包容力を広げるには、まずは何も求めず、無条件で相手を受け入れることができなければなりません。つまり、報いを求めないことで包容力が拡大し、慈悲の心も大きくなり、より多くの衆生を救済することができるのです。そして、体もより広く、より大きな宇宙まで拡大し、より高い果位を獲得できるということを悟りました。

 法理が通じたことで、周囲の人間を見る目も変わり、彼らを分別することもなくなりました。人々が苦界であがいているのを見て、できる限り1人でも多くの人間を救いたいと思います。

 師父の教えに感謝します。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「梅」
 [3] 李洪志師父の著作:『オーストラリア法会での説法』
 [4] 李洪志師父の著作:『ヒューストン法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/11/17/319155.html)
 
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