外界情報を遮断してこそ初めて清浄に法を実証することができる
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文/中国の大法弟子

明慧日本2016年1月2日】

 師父、こんにちは!
 同修の皆さん、こんにちは!

 ここで、同修の皆さんと現在の色情や賭博が社会の至る所に存在する環境の下、修煉者はどのように妨害を排除して、純一無雑の心境で法を実証することに専念し、三つのことをしっかり行い、全体向上を目指して、平穏に自分の使命を果たせることについて交流したいと思います。

 人類は電子情報の時代になりました。中国の国民は中国共産党文化の思惟方式の影響と、異星人科学への依存のため、考え方の変異と浅はかな人間性を露わにしました。携帯やパソコンを開けば、扇情的な情報が常にポップアップされてきて、防ぎようがありません。様々な娯楽情報があらゆる場所で掲載されていて、修煉者にとって、どのように染まらずにいられるかは真に修煉する弟子への試練だと思います。

 妨害と汚染は二種類に分かれます。一つは外界の大きい環境からのもので、もう一つは内面からの思想境地のものだと思います。外界からの最大の汚染は、即ち情報の汚染です。今のスマートフォンはパソコンと同じ性能を持ち、配信されてる情報量はとても大きいのです。これらの情報は人を引き付けていると同時に、人を堕落させているのです。道徳の最低ラインがなくなり、媒体の無責任で間違った誘導の下で、ほとんどの人が名利を追い求め、色欲の刺激を楽しんでいます。人が狂ったかのように発散できることを熱狂的に追求している状態は、魔物や憑き物に操られているケースが多いのです。このような人類社会に直面して、修煉者は「見ても見ざれば」、「聞いても聞かざれば」【注1】のようにしなければなりません。修煉は、心から自ら進んで修め、妨害を取り除き、誘惑から遠ざかることです。

 携帯の情報をチェックするため、夜遅くまで起きて、朝起きられず、起きて正念を発しても、頭がすっきりしません。発正念の後に、二度寝をしてしまいます。私はこの問題の深刻さに気づいてから、極力携帯の情報をチェックしないように我慢しました。そしてに自分に厳しく律して、携帯の情報を避けて、時間を割いて、常に正念を発して、妨害を取り除くことにしました。目覚ましが鳴ると同時に起き上がり、正念を発してる時に、頭がすっきりして、二度寝する必要がなくなりました。しかし、再び自分を緩めて、見る必要のない情報を見てしまいますと、異なる妨害が現れてきます。このような状況は繰り返されますが、私たちの修煉の意志の強さにも左右されます。

 私にとって、もっとも放下しなければならないのは、好奇心と物事に下した判断の正確さを実証しようとする執着心なのです。

 好奇心は世間、人、物事に関心を持って、詳細な内容を究明することです。人に関心を持つことは、人に執着することです。人に執着したら、一体どうすれば高い次元へ突破することができるのでしょうか?自分の判断が正しかったことを実証したいため、根掘り葉掘り問いただすことになりますが、これらの執着心は人の貪欲心を引き起こしてしまいます。私にはこのことに関する教訓が一つありす。それは「淘宝」というショッピングサイトで買い物することです、毎年の年末セールを楽しみにしていました。化粧品に対するこだわりを非常に強く持ち、色欲に執着することは自己顕示に執着することだと思います。当初の動機は、家族用の一年分の化粧品を買いだめして、時間と労力を節約することでした。しかし、多種多様なメーカーの商品が全部自分の必需品に見えてきました。うっかり、二年分の商品を購入してしまいました。師父の点化を頂いたにも関わらず、購買欲を我慢できませんでした。「淘宝」サイトを利用している最中、突然咳が止まらなくなり、吐き気がしました。その咳の原因はミクロの次元から現れてきたように感じました。直ちに正念を発して、内に向けて探して、自分の過ちを正したら、咳が直ちに止まり、良くない物質が無くなっていくことが分かりました。修煉は非常に厳粛であり、絶対に確かなことです。いかなる些細なことも存在しませんし、どんな些細なことの背後にも執着や魔性が潜んでいます。宇宙の高次元の生命は、私たちに注目しています。日常生活は私たちの修煉と溶け込み合い、気にせずに、成り行きに任せてはなりません。時々刻々自ら戒めなければなりません。

 人類社会は文芸作品において、酷く堕落しており、深刻な状態に陥っています。親戚がフランス旅行で、ルーヴル美術館で撮ったたくさんの写真をみせてくれました。彼と一時間かけてすべての写真を鑑賞しました。次の明け方、私は夢を見ました。自分の世界の近くの衆生、少し離れている衆生、そして、遠く離れている衆生はみな口をそろえて私に「お化けを見ました!」と同じことを言っていました。目が覚めて、師父の説法を思い出し、自分は間違えていたことに気づきました。

 修煉者は絶え間なく自分の考えと空間を浄化することを要求されています。自ら進んで何かを見てみることは、自分がそのものを求めていることに等しいので、邪悪に隙を付け込まれやすくなります。情報摂取を厳守することは、もはや小さい問題ではないのです。重視しなければ執着と思想業を悪化させてしまいます。修煉は精進できるか否かは、自分の一思一念は、邪悪を助成しているか妨害を断ち切るかに左右されます。

 もう一つですが、現代芸術作品、例えば絵画、彫刻、常人の人物像などをまだ家に飾っている同修に、これらのものを自分の状況に合わせて、適切に整理、処分するように提案します。これらの作品は他空間では生きている生き物なのです。大法弟子は世人を救い、すべての不正をただす責任と使命を担っていますので、不正を助成するのは良いことなのでしょうか?修煉者は業を取り除くことに専念しなければなりませんが、自分の空間に業力を取りいれるような行動は良いことなのでしょうか?法の中で、常人の心に動かされずに、平常心を保ち、三つのことを実行することが最も大切なのです。私たちが法を学ぶ時は、師父との繋がりを強化しています。明慧の交流を閲覧する時は、大法弟子の全体連携を強化しているのです。修煉者は、心は師父に向かい、念は法の中におくべきです。常人との連携を生じてはなりません。根本的に常人を越えてから、初めて人を救い済度できるのです。

以上は私の修煉の過程において少しの悟りです、不足なところがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いいたします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道中」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/12/27/321147.html)
 
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