同修の時間を大切にしよう
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文/中国の大法弟子 屹然

 【明慧日本2016年2月7日】師父の法を正される進展が急速に進められている中、大法弟子にとっても、救いを待っている衆生にとっても、時間はとても貴重です。大法弟子は正当な理由もなく、同修の時間を消耗してはいけないと思います。軽く言えば、それは同修への無配慮で、衆生への無責任ですが、重く言えば、それは同修を傷つけることであり、衆生を軽視することになると思います。

 今、人類が生存し続ける中での一分、一秒は、師父が人類の巨大な罪業を背負われ、衆生を救い、大法弟子を成就する為に引き延ばされた時間で、万金でも引き換えることができない貴重なものです。師尊の慈悲なるご加護を受けている大法弟子のこの時間の扱い方から、その弟子の正法修煉に対する理解度、及びその弟子の個人修煉の心性と次元が伺えます。心性が高ければ無私になり、どんな時も先に相手の立場から物事を考えるのですが、そうでなければ個人の嗜好や気持ちを優先し、故意でなくても、知らず知らずのうちに同修の時間を無駄にしてしまうのです。

 同修と接する中で、以下のような三つの状況(妨害)がよく見られます

 一つ目は、用事で同修の家を訪ねる場合ですが、同修に会うや否や、雑談を始めます。短ければ2時間ほどですが、長ければ半日が消えてしまいます。一部の同修は特に用事がなくても訪ねて来て、昔のことについて語り合い、数時間を無駄にしてしまいます。

 二つ目は、交流の名目で同修の家に数日間滞在することです。ある人は長い間自分を着実に修めず、ちょっとした関を乗り越えることができず、そのために交流をしようと同修の家を訪ねて、時には1日、2日ほど泊まってしまい、相手に多大な迷惑をかけています。関を乗り越えることができないと感じた時の多くの場合、心を静めて学法すれば問題が解決されるはずです。

 もう一つは同修の「突然」の来訪ですが、大した用事がないにもかかわらず、同修の家を訪ねて数日間滞在してしまいます。訪問される側からすれば、時間が惜しいと思いながらも、来訪者を追い出す訳には行かない状況に追い込まれてしまいます。

 もちろん、同修間の必要な交流は不可欠ですが、その時できるだけ話を簡略化し、内に向けて探すことに努め、法理に沿って認識を高め、失敗を繰り返さないように心掛けるべきだと思います。常人にとっても「くどくど」という言い方は嫌がられますので、修煉者はなおさら避けるべきです。

 同修と交流する際、私はいつも単刀直入に話のポイントを切り出し、無駄な話を口にしません。だらだらと喋り出す同修に会えば、相手を尊重するために面と向かって話の腰を折りませんが、言い訳を見つけて機敏にその場から離れるようにしてきました。同修には配慮が欠けていると思われるかもしれませんが、このようにすれば多くの時間を節約でき、同修にも自分にも良いことだと思います。また、それが本当の善だと思います。

 去年、私は時間を「分」単位で計算し、有効利用して来ました。常に衆生を救うことを念頭に置き、雑談をしたことがありませんでした。どうしても用事で同修の家を訪ねなければならない時は、門に立って、一言二言ではっきりと伝えてから去るようにしました。皆が衆生を救うために忙しくしており、時間を節約することは自分にも、同修にも有益だと思います。

 常人の間では「時間は金なり」という言い方がありますが、大法弟子にとっての時間はなおさら貴重で、大法の資源の一部でもあります。精進している人は他人の時間を無駄にせず、次元の高い大法弟子はなおさら、理由もなく同修の時間を無駄することはしないと思います。もちろん、特別な事情で同修の協力と助けが必要とされる場合なら話は別です。

 同修の時間を大切にすることは、大法の資源を惜しむことであり、同修を尊重することであり、衆生に対し責任を負うことでもあります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/1/21/322504.html)
 
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