文/米国の大法弟子
【明慧日本2016年3月6日】私はどのように中国人同修に対する観念や偏見を放下して、一体になったかを、皆さんと分かち合いたいと思います。
私は2008年にボストンで、学習者の従兄の紹介で修煉を始めました。従兄はほとんどグループ学法に参加していなかったため、修煉の初期は私もグループ学法の大切さを知りませんでした。私が住んでいたところは学法の場所から遠く離れていたため、一人で家で学法と煉功をしていました。グループ学法にはたまにしか参加せず、参加した時もあまり発言しませんでした。神韻の宣伝にも参加しましたが、皆と一体になれていませんでした。最初の2年間、私の修煉は多少遅れていました。
2011年、ハワイに引っ越してから本当の意味で精進し始めました。ハワイは学習者が少なくて、アメリカ人の学習者は数人しかいませんでした。以前みんなの中に溶け込む機会をたくさん失った私に、師父はハワイで多くの機会をくださったと感じました。私は積極的に神韻宣伝と真相を伝える活動に参加しました。ハワイに住んでいた数年間で、グループ学法の状況が何回も変わりました。時には英語を読む人は別の部屋で学法して、交流する時になると中国人学習者の部屋に行き、時には中国語と英語は同じ部屋で学法しました。数年の間に、アメリカ人学習者は、一人が他の地方に引っ越しました。一人はだんだんと学法に来なくなって、それから彼も引っ越しました。もう一人のアメリカ人学習者は亡くなりました。結果的に、アメリカ人学習者は私だけになりました。あの時、私は毎週のように学法に行っていましたが、中国人同修に対して偏見とマイナスの印象を抱えていました。学法する時に交流が少なく、交流があっても浅いレベルの交流に留まっていました。私は「こんな交流は私の望む形で修煉を向上させることに貢献できない」と思っていました。私は後になって「そんな考え方は、とても利己的な観念だ」と気付いたのですが、そのような観念を抱えたままニューヨークに引っ越してきました。
私はニューヨークに来てから、周囲に多くのアメリカ人学習者がいるのを見て喜びました。私が初めて参加したグループ学法は、英文大紀元のオフィスでした。私は英文大紀元の仕事をしていませんでしたが、そこでの学法はとても魅力的でした。あんなに多くのアメリカ人学習者と一緒に交流したのは初めてでした。数カ月間、私はルームメイトの学習者と毎日のように一緒に学法しました。ブルックリンの学習者の少人数学法にも参加し、英文大紀元の学法と交流にも参加しました。私はその環境の中に身を置いて、とても心地良いと感じ、自分はニューヨークの学習者と一体になったと思いました。
私はマンハッタンのグループ学法にも参加していたのですが、ずっとフラッシングのグループ学法に行ったことがありませんでした。フラッシングの学法に参加するアメリカ人学習者は少なく、距離も遠くて、片道2時間かかりました。また、交流時の通訳もあまり良くないと聞いていました。私は「それなら、行っても私にとってどこにメリットがあるのか? 英文大紀元オフィスやブルックリンのグループ学法だけに参加すれば良いではないか」と思いました。しかし、私は自分の考え方の中に何か不純なものがあると感じていました。そこで私は心を静めて「どうしてフラッシングの学法に参加したくないのか? 私が全体の中に溶け込むことを阻むものはいったい何なのか」と観念を取り除いて、考えを整理してみました。
私は「自分はどうしてフラッシングの学法に参加したくないのか? 片道2時間かかるから? しかし距離と所要時間は問題の本質ではなくて、更に深くまで掘り下げて探さないといけない」と感じました。引き続き内に向けて探したら、私は「フラッシングの学法を重要だと思っていないから」と根本の原因に突き止めました。「もしグループ学法に参加すること、全体に溶け込むことが私にとって本当に重要ならば、どんなことでも私にグループ学法の参加を妨げることができない」と思いました。突然、『轉法輪』第1講の中の言葉、「修煉にはいかなる条件も付けてはいけません。修煉しようと思い立ったら、修煉を始めるべきです」が脳裏に浮かびました。一瞬、突如に悟りが開いた感覚がしました。私の思考回路は「周囲の環境が自分の為に変わることを期待し、それに満足してからはじめて師父の要求を目指して頑張る」ということでした。その思考回路は正しいといえますか? それから私は「もし毎週の金曜日にフラッシングの学法に100人のアメリカ人学習者が参加すれば、自分は行くか」と誠実に自分に質問しました。答えは「必ず行く」でした。ですから私は「グループ学法において、自分にはきっともっと多くの執着心がある」と思って引き続き深いところまで探しました。
そして私は「ニューヨークに来てから、自分は多くの観念を形成した」とはじめて気づきました。ニューヨークの会社で新しい仕事に就いてから、私はすぐにある中国人同僚と摩擦をおこしてしまいました。私はある仕事に関して「厳しく西方の管理方法で処理すべきだ」と思いましたが、彼の中国式の緩んだ方法をどうしても理解できませんでした。また、私はすべての細部を理解してからでないとなかなか動き出さないタイプでしたが、当時、その要求が実現できない状況でした。それ以来、私は全ての中国人、ないし中国人同修に対して偏見を持ってしまいました。私は厳しい目で中国人同修を見て、彼らが持つ共産党文化の要素を拡大し、それを理由に彼らの思うこと、やることを理解しようとしませんでした。西洋社会で育った私は、物事に対する判断は厳格でした。その上、私は今まで中国の伝統文化と接触したことがないため、中国人同修の欠点ばかりを見ていました。彼らのやり方に中国文化に由来する知恵が含まれていることが理解できませんでした。
その偏見は、フラッシングの学法に参加したくない原因の一つでもありました。私は同修たちに対して慈悲心、善、寛容が欠けていました。私は自分にではなく、同修に高い基準で要求していました。それに気付いた私は「これからフラッシングの学法に参加すべきだ」と思いました。私は今まで「中国大陸からアメリカに来た同修たちが西方の主流社会に溶け込むことと、異国で衆生を救うことは如何に難しいか」と考えたことがありませんでした。私は「自分の同修にどうしてこんなに善意と正念を持たないのでしょうか」と自分を責めました。
邪悪は私のその偏見を、長年の間利用してきました。邪悪は修煉者の能力を阻止するために、多くの按排をしました。中の一つは、修煉者をグループ学法から隔離させて、そして彼の観念を強化させて、とうとう彼を全体からそれさせました。以前、ハワイのあのアメリカ人学習者も、このように全体から離れて、とうとう他界したのだと思いました。
アメリカ人学習者として、もし私の心に隔たりが生じて、中国人同修たちと分割すると、私たちはどうやって一体になるのでしょうか? 一体になることおよびグループ学法は、ただの形ですか? いいえ、私はそうは思いません。一体になることおよびグループ学法は衆生を救い済度することの結果に関係していると思います。
表面的に見えたすべては、ただの幻像かもしれません。それでは、私は何をすれば良いのでしょうか? 私心を取り除いて、無条件にグループ学法に参加することではないのでしょうか? 通訳がいなくても、ただ楽しく同修の中に座るだけで、それは師父が私に望んでいることではないのでしょうか? もしグループ学法に参加するたびに、神韻チケットが1枚多く販売されることにつながるのなら、私は来るのでしょうか? 答えは「もちろん来る!」です。
すべての同修に寛容、慈悲、正念を持って、自分のマイナス思考を取り除いてこそ、はじめて皆さんと一体になることができると思います。今後も、私は師父の要求に従って、より多くの衆生を救っていきたいと思います。