無私無我ができてこそ、無漏になれる
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文/同真

 【明慧日本2016年3月13日】長年修煉してきても、まだ多くの執着心が取り除けていないと思い、漏れをなくするためにはどのように修めればよいのかとずっと考えてきました。

 師父の新しい経文である『二〇一五年米国西部法会での説法』を勉強して、大法弟子がもれなく修煉することについて新たな認識がありました。師父は「大法の純正、大法の威厳、この威徳、この力、救い済度する中で示された正しい部分は神が見ても驚かされ、誰もマイナスの作用を働く気になりません。しかし、それらはいずれも正しい形で表れてきて、その中から得ようとするものを手に入れ、場合によっては広範にわたって何かを形成させ、このようにするのです。これはすなわち旧勢力であり、これはすなわち、妨害と破壊なのです」[注1]と説かれました。場合によって旧勢力はプラスの効果(大法弟子を精進させたり、大法弟子をテストしたりという名義)があるようにみえても、旧勢力の本当の目的は、これらの事を通して、自分たちが望んでいることを実現させているにすぎません。もっとはっきり言えば、これは「私」です。大法弟子は法を正す過程の中で更新された生命であり、古い宇宙から、そして古い法理から抜け出し、古い要素に支配されないよう「私」を取り除いて「無我無私」を修めてこそ「無漏」になれると思います。

 例えそれが法を正すことと衆生を救うことにかかわりを持っていても、大法弟子の一つ一つの言動や思考の出発点に「私」があるのなら、それは旧勢力の按排に従ったということになります。この方面について、私にはとても忘れがたい体験があります。

 不法に監禁されている間、一時期はとてもいい環境を作ることができました。私を含めて全部で30人近くの同修が不法に監禁されていて、それぞれ違うブロックには2、3人の同修がいます。それぞれのブロックの環境は異なり、緩いところがあれば、厳しいところもあります。刑務所内と外の同修が力を合わせて共に努力し、多くの大法が迫害されていることに関しての真相資料を手に入れることができました。私がいる所は比較的緩く、学法煉功をしても誰も何も言わないため、刑務所にいる間、資料の大半は私が保管していました。多い時は『轉法輪』6冊、『九評』2冊、『党文化を解体』2冊、電子本2個、mp3が1台、mp5が1台、そして『明慧週刊』と真相の小冊子が何冊かありました。当時はもう1人の同修と協力して、他の区間にいる同修の状態と環境を観察しながら、同修たちに資料を回していきました。緩いところは書籍の『轉法輪』を読むことができますが、厳しいところでは手書きの『轉法輪』を読んだり、読むことすら許されない環境もありました。当時は、資料を手に入れるのがとても難しいかったので、いつも慎重に同修に渡したり、読み終えたら回収したりと、没収されるのを非常に恐れていました。

 その時は慎重にした方が大法のためであると思っていました。どのような執着心があるのか、そして何を隠しているのかなど、自分自身が一番よく分かっているはずでした。資料を自分のところに置けば、法を勉強するときは便利であると思っていました。しかし、学法のためとは言っていましたが、本当は奥深くに隠れていた利己心があったのです。それから同修を十分に信用せず、恐怖心が働き、同修の資料が没収されると、自分にまで及んでしまうのではないかと恐れていたのです。そして、最後は慈悲が足りていませんでした。発正念して同修の環境をよくしなければならないのに、却って「資料を没収されてしまう」という負の念を加えてしまい、これにより同修の環境が一向に改善されませんでした。これら三つの執着心の根本的なものはすべて「利己心」にありました。自らの利己心を取り除けていない以上、修煉に漏れがあるということなのです。結局、自分が持っていた『轉法輪』を1冊没収されて、取り返しのつかない結果になりました。

 修煉に小さい事はありません。どれほど小さい事でも拡大してみれば、修煉者と常人との基本的な違いに関係しているのかもしれません。師父は「執着が一つも漏れることなく無くなるまで修めて」[注2]と説かれましたので、修煉に関するどのような小さい事でも見逃してはならないのです。また、師父は「修煉に漏れがないとはどういうことでしょうか? 小さいことはありません」[注1]と説かれ、そして、「一部の学習者は病業の関を乗り越えられません。重大な過ちばかり考えないでください。大きな過ちがなく、法に対して確固たる信念を持っているとあなたは思っています。しかし、あなたはそれらの小さいことを軽視しないでください。邪悪は隙に乗じてくるのです。多くの学習者は小さい過ちのせいで命まで失いました。本当に非常に小さいことが原因だったのです。修煉は厳粛であり、漏れがあってはならないからです。あなたはそれらのことを長い間修めていません。小さいことですが、あなたは長い間重視していません。これで大ごとになりました。多くの人がこれで命を失いました」[注1]とも説かれました。

 修煉は本当に厳粛なことなのです。漏れなく修めるには、我々自身の心の奥深くに隠されているすべてのものを見つけ出して、取り除かねばなりません。江沢民告訴の件に関しても、すでに5カ月(中国では始まってまだ5カ月しか経っていません)経ちましたが、未だ19万人前後の同修しか告発状を出していないのです。もちろん、師父は「重要な学習者、大きな作用を働く学習者は身元を晒さないほうがいいのです」[注1]と主張されていますが、私たちも自分自身に問いかけてみてください。「自分は本当にその『重要な学習者、大きな作用を働く学習者』でしょうか」と心に聞いてみてください。私は執着心のために法の中から言い訳を探すのではなく、この一歩を踏み出せない本当の原因を深く掘り下げる必要が大いにあると思います。「恐怖心」でしょうか。それとも「利己心」でしょうか。どの執着心も自分自身を園満成就させない原因の一つなのです。

 今回の米国西部法会での説法を勉強して、師父は普段より厳しく、そして我々に残された時間は本当に少ないと感じました。自分自身にまだどのような執着心が残っているのかをすぐに見つけ出し、今からそれを取り除いて無私無我になれるよう精進していきましょう。

 最後に師父の説法で終わりにしたいと思います。「さらに皆さんに教えますと、実際には、皆さんの以前の本性は、自らのため、私のためを根本としたものだったのですが、今後、何 かをするときには、まず他の人のことを配慮して無私無我で、なおかつ他人を先に、自分をあとにするという正覚にまで修め遂げなければならないのです。それ ゆえに皆さんは、今後何かを行ない、何かを口にするときにも、ほかの人のため、ひいては後世の人のために考えなければなりません! 大法が永遠に変らない ようにするために考えなければならないのです!」[注3]

 個人の悟りに限りがあります。正しくないところがあればご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「修煉は政治ではない」
 [3] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「佛性に漏れなし」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/10/27/318183.html)
 
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